被災地支援競輪として行われた青森記念の決勝。並びは新田‐佐藤の北日本,山田‐市田の近畿,中井‐三谷の奈良,古性‐南の大阪で深谷が単騎。
深谷がスタートを取って前受け。2番手に山田,4番手に新田,6番手に古性,8番手に中井で周回。残り3周のバックからまず古性が動き,ホームの出口で深谷を叩き,一旦は誘導の後ろに。ホームから山田が動き,これに乗ったのが中井。バックで山田が古性を抑えると中井は外から発進。打鐘で前に出た中井の先行。3番手を内の山田と外の古性で競り合う形に。深谷はこの後ろにいましたがホームで新田が外に被せ,そのまま新田が発進。バックで捲りました。この勢いに乗ったのが深谷で最後は大外を捲り追い込む形で突き抜けて優勝。2車身差の2着に新田。新田マークの佐藤が1車身差で3着。

優勝した愛知の深谷知広選手は2月の高松記念以来となる記念競輪13勝目。青森記念は初優勝。このレースは近畿勢が6人も乗ってきましたが,連係せず,結果的に協力し合うようなレースにもなりませんでした。そのために新田にとっては好都合な展開となり,普通は捲り切ったところで優勝となるのですが,脚を溜めていた深谷が最後に爆発して逆転という形に。新田が発進するのが早かったということもあるでしょうし,捲り切るまでに意外と脚を使ったこともあり,最後は意外なほどの差がつきました。深谷は単騎だからといって自力以外に何かできる選手ではありませんが,そのことが逆に強みになる展開というのもあって,今日のレースはまさにそれであったということではないでしょうか。
スピノザは第四部定理六八を論証するとき,善bonumと悪malumは相関的概念であるということを根拠のひとつとしています。これは人間は善を認識しなければ悪を認識することはないし,悪を認識しなければ善を認識することもないという意味です。つまり善の認識も悪の認識も,現実的には単独で認識されるということはあり得ず,複数のものが比較されることによって認識されることが可能になるということをスピノザは肯定していると考えなければなりません。ですから善悪というのが現実的に存在する人間にとって有意味であったり重要であったりするのは,実は第四部定理一九とか第四部定理一五でいわれている観点の方なのです。ただし注意してほしいのは,そちらが有意味であったり重要であったりするのは,その認識が現実的に存在する人間の意志作用volitioの起成原因causa efficiensとなるからではなく,複数のものが比較されるという観点から善悪が示されているからだということです。
しかし僕は基調はそれが単独で認識されるという観点から示されている第三部定理九備考や第四部定理八の観点であるとしました。その理由のひとつは,ジャレットがいっているように,自分の欲望cupiditasあるいは喜びlaetitiaと悲しみtristitiaが自意識化されない限り,善も悪も存在しないといわなければならないからですが,別の理由もあります。
岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三と第二部定理一七から,現実的に存在する人間はきわめて多くのものを表象しますimaginari。その表象imaginatioのうちには喜びを齎すものもあれば悲しみを齎すものもあるでしょう。したがって現実的に存在する人間が複数のものを比較することによって何事かを判断するということは,ほぼ無条件に前提してよいと僕は考えます。ですから基調となっている観点が善悪が単独で認識される場合であるといっても,これは観点としてそのようになっているという意味であり,人間が現実的にそう認識しているというわけではありません。そんな認識は不可能であるからです。
したがって善悪の有意味性は比較の観点の方にあります。でもその有意味性は,基調となっている単独性の方にも無条件の前提として含まれていると僕は考えるのです。
深谷がスタートを取って前受け。2番手に山田,4番手に新田,6番手に古性,8番手に中井で周回。残り3周のバックからまず古性が動き,ホームの出口で深谷を叩き,一旦は誘導の後ろに。ホームから山田が動き,これに乗ったのが中井。バックで山田が古性を抑えると中井は外から発進。打鐘で前に出た中井の先行。3番手を内の山田と外の古性で競り合う形に。深谷はこの後ろにいましたがホームで新田が外に被せ,そのまま新田が発進。バックで捲りました。この勢いに乗ったのが深谷で最後は大外を捲り追い込む形で突き抜けて優勝。2車身差の2着に新田。新田マークの佐藤が1車身差で3着。

優勝した愛知の深谷知広選手は2月の高松記念以来となる記念競輪13勝目。青森記念は初優勝。このレースは近畿勢が6人も乗ってきましたが,連係せず,結果的に協力し合うようなレースにもなりませんでした。そのために新田にとっては好都合な展開となり,普通は捲り切ったところで優勝となるのですが,脚を溜めていた深谷が最後に爆発して逆転という形に。新田が発進するのが早かったということもあるでしょうし,捲り切るまでに意外と脚を使ったこともあり,最後は意外なほどの差がつきました。深谷は単騎だからといって自力以外に何かできる選手ではありませんが,そのことが逆に強みになる展開というのもあって,今日のレースはまさにそれであったということではないでしょうか。
スピノザは第四部定理六八を論証するとき,善bonumと悪malumは相関的概念であるということを根拠のひとつとしています。これは人間は善を認識しなければ悪を認識することはないし,悪を認識しなければ善を認識することもないという意味です。つまり善の認識も悪の認識も,現実的には単独で認識されるということはあり得ず,複数のものが比較されることによって認識されることが可能になるということをスピノザは肯定していると考えなければなりません。ですから善悪というのが現実的に存在する人間にとって有意味であったり重要であったりするのは,実は第四部定理一九とか第四部定理一五でいわれている観点の方なのです。ただし注意してほしいのは,そちらが有意味であったり重要であったりするのは,その認識が現実的に存在する人間の意志作用volitioの起成原因causa efficiensとなるからではなく,複数のものが比較されるという観点から善悪が示されているからだということです。
しかし僕は基調はそれが単独で認識されるという観点から示されている第三部定理九備考や第四部定理八の観点であるとしました。その理由のひとつは,ジャレットがいっているように,自分の欲望cupiditasあるいは喜びlaetitiaと悲しみtristitiaが自意識化されない限り,善も悪も存在しないといわなければならないからですが,別の理由もあります。
岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三と第二部定理一七から,現実的に存在する人間はきわめて多くのものを表象しますimaginari。その表象imaginatioのうちには喜びを齎すものもあれば悲しみを齎すものもあるでしょう。したがって現実的に存在する人間が複数のものを比較することによって何事かを判断するということは,ほぼ無条件に前提してよいと僕は考えます。ですから基調となっている観点が善悪が単独で認識される場合であるといっても,これは観点としてそのようになっているという意味であり,人間が現実的にそう認識しているというわけではありません。そんな認識は不可能であるからです。
したがって善悪の有意味性は比較の観点の方にあります。でもその有意味性は,基調となっている単独性の方にも無条件の前提として含まれていると僕は考えるのです。