スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&事物と本性

2007-02-08 21:37:56 | 将棋
 王将戦七番勝負第四局。今日もネットに接続できたのは6時半過ぎで、101手目の▲7九銀の局面でした。以下、△7八銀成▲同銀と進んだので、▲6七金から千日手もあるのかと思いましたがここで△6七歩成。▲同銀で有効な攻め筋があるのか疑問に思っていたところ、△7七角成といったので驚きました。しかしこれは結果的にみても暴発だったと思います。以下、▲同桂に△6八金と喰らいつきましたが、▲6三歩成△6七金に▲5五角が詰めろ逃れの詰めろで大勢が決してしまいました。ここからは僕にでも分かりやすいほどの大差で、123手で羽生王将の勝ち。僕が見始めた局面から考えると、やけにあっけない幕切れのように感じたのですが、佐藤棋聖は中盤の段階からずっと非勢を意識していたようで、おそらくこの手順のうちに見落としがあったというわけではなく、仕方なかったのかもしれません。この将棋は双方の飛車が共に攻めに関してはまったく働かなかったという印象で、こういう将棋というのは珍しいのではないかと思います。これで羽生王将の3勝1敗。防衛に王手が掛かりました。第五局は15日と16日に指されます。

 それでは、スピノザによる本性の定義である、事物がなければ本性はあることも考えることもできないということを、本性の定義に加えることの正当性について考えてみます。具体的には三角形の場合で説明したので、ここではもっと一般的にいきます、今、Aという事物があって、この事物がXなしにはあることも考えることもできないとします。この場合、一般論ではXがAの本性を構成するということになるわけです。しかしもしも、Xの方は、Aがなかったとしても、Bさえあればあることも考えることもできると仮定します。すると、もしもこのとき、XがAの本性を構成するならば、XのAに対する関係とBに対する関係はまったく同一なわけですから、XはBの本性も構成すると論理的にはいわなければならないということになります。すなわち、Aの本性もBの本性もXという同一のものであるということになります。しかしこれは、各々の事物にはそれぞれ固有の本性がなければならないということに反するので不条理です。あるいは、この場合にはAとBは同一のものであるといわなければならないでしょう。したがって、事物がなければ本性もあることも考えることもできないということを本性の定義に加えることは妥当だということになるのです。
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