スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

将棋連盟の要望&責任論の発生

2007-02-26 22:02:39 | 将棋トピック
 流れの話と前後しますが、2月14日付で、日本将棋連盟から新法人設立準備委員会に対して4つの要望というのが公開されています。今日はこの要望について考えます。まず4ですが、これには法律上の議論がおそらくは不可欠で、棋士は法には疎いでしょうから専門家である弁護士を交えるというのは妥当でしょう。2は、女流棋士は棋士として一人ひとりが独立しているというのが僕の考えの前提ですが、現実的に中学生や高校生もいますので、そういった棋士の保護者にも十分な説明をするということは必要だろうと思います。3は、棋界は師匠がいなければ入門できない仕組みになっていますから、その観点からはやる意味はあるでしょう。ただし、これはやったところで問題解決のために前進できることかどうかは微妙なように思います。1は正直なところ僕には意味不明です。もしも準備委員会ではなく、女流棋士会との話し合いを望むという意味なら、準備委員会が女流棋士会とは相対的に(この相対的という意味もよく分かりませが)独立していると認めているわけですから、独立の問題について話し合う意味はないと思われます。一方、もしも仲間として話し合いたいという要望なら、それが何を想定しているのか僕には分からないです。ここからは、連盟(理事会)と準備委員会との話し合いが険悪な雰囲気にあるのだろうということが推測できるだけです。連盟は同委員会を敵対者のようなものとみなしていて、怒りとか不信感のようなものに満ち溢れ、この委員会とは話し合いたくないといっているだけのようにも思えます。そしてもしもこの推測が正しいのであるなら、話し合いの進展を阻害するのはむしろそうした感情そのものではないかと思えます。

 確かにこの第二部定理三二から、スピノザの哲学、あるいはエチカにおける責任論の問題が発生してくるのです。これはむしろ一般論的な考え方になるのですが、意志というのはその意志された内容を行為するということを伴っています。あるいはある人間がなす行為の原因としてその人間の意志が措定されるのです。したがってこの一般論に従えば、人間の意志が自由なものではなく強制されたものであるということは、取りも直さず、人間の行為は自由なものではなく強制されたものであるということを帰結させるのです。一方、責任という概念が一般的にはどのように考えられているのかということについては、また後に詳しく考察してみるつもりですが、簡単にいって、もしも人間がなすすべての行為が強制されたものであるなら、逆のいい方をすれば、もしも人間のなすすべての行為について、その人間はそれ以外の行為をなすことが不可能であったということを認めるならば、人間は自分のなした行為に対して責任を負うことができないように思えますし、また逆に、ある人のなした行為に対して責任を追及するということができなくなるように思えます。極端な例をいえば、たとえある人間が殺人という行為をなしたとしても、その行為が強制されたものであるなら、どうしてその人間がその殺人という行為に対する責任を負うことができるのでしょうか。
コメント (2)
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