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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

静岡記念&第二部自然学①補助定理二

2007-02-13 22:01:46 | 競輪
 静岡記念決勝(動画)。
 小嶋選手がSを取ってそのまま前受け。村上選手が3番手、渡部選手はここを追走し、7番手から藤田選手。残り2周のバックで藤田選手が一気に上昇すると、村上選手も上がって小嶋選手を叩きました。打鐘で藤田選手が先行態勢に入ると、渡部選手は切り替えて4番手を確保。ホームから5番手になった村上選手が早くも巻き返しにいきますが、これは藤田選手がうまく合わせて3番手までで一杯。バックで8番手の小嶋選手が捲ってくると、村上選手の番手から新田選手も発進。さらに藤田選手の番手の長塚選手も発進と捲り合戦に。長塚選手のスピードは鈍く、新田選手が出きってさらに外の小嶋選手との争いに。しかし新田選手が振り切って優勝。2着に小嶋選手で、小嶋選手マークの山口選手と新田選手マークの望月選手が絡む形になり、バックでは行き場のなかった渡部選手が外から3着に入りました。
 優勝した静岡の新田康仁選手は嬉しい地元記念初優勝。今回は完全優勝のおまけつきで、できが違ったようです。記念競輪は昨年の川崎記念以来。競輪祭3着→静岡記念優勝は、昨年のグランプリを制した有坂選手と同じです。
 2着の小嶋選手もここは追加配分の強行日程で、立派だったと思います。

 僕たちの精神(人間精神)のうちに、たったひとつでも共通概念があるということを証明すればそれで十分というわけですから、最も簡単なものでいきます。その基礎となるのが第二部自然学①補助定理二です。
 「すべての物体はいくつかの点において一致する」。
 補助とはいえ定理ですから、本来ならこれは証明されるべき事柄なのですが、ここでは証明しません。そもそも、ある一致する要素を有するから、それらのものが総じて物体といわれるということは、当然のことだと思います。そして、ここで最も重要なのは、僕たちの身体(人間身体)もまたそうした物体のひとつであるということです。これについてもとくに反論はないでしょう。
 僕たち人間は、日常的に外部の(自分自身の身体以外の、という意味です)物体と触れ合っています。これも、それなしには人間は生活するということができないでしょう。そこで、僕たちが外部の物体を刺激し、また外部の物体から刺激されるということを通じて、僕たちの精神(人間精神)のうちには必然的にある何らかの共通概念が形成されていくということになるわけです。したがって、この共通概念が、十全な観念でありさえすれば、僕たちはこの共通概念が、ある特定の個物、この場合にはある特定の物体に限定されますが、そうしたものの本性を構成することはないということを知ることができるということになると思います。
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佐賀記念&共通概念と本性

2007-02-12 21:54:12 | 地方競馬
 第34回佐賀記念
 好発から先手を奪ったのはバンブーエール。これをマイネルボウノット、クーリンガー、キングスゾーンといったあたりが追走。そのまま馬順が決まりかけたと思われた1周目の正面で、ペースが落ちたところを外から中団にいたサイレントディールが追い上げ、一気に先頭に立ちました。クーリンガーがこれを追い、向正面に入ってペースが上がったところでバンブーエールは内をずるずると後退(最下位入線)。代わってマイネルボウノットが3番手に上がったのですが、これも手応えはいまひとつ。結局、前の2頭の争いとなり、直線に入ってクーリンガーがよく追い詰めはしたものの差すまでには至らず、サイレントディールの優勝となっています。
 重賞は2003年の武蔵野ステークスGⅢ以来と実に久々の制覇。ただ昨年も帝王賞では3着に入っていて、極端に能力が衰えていたというわけではありません。気性面にやや課題を抱えている馬で、今日はペースが緩んだところで一気に上昇していった武豊騎手の好判断も味方したと思います。管理するのはメジロマックイーン等の栗東の池江泰郎調教師。
 3着は愛知のキングスゾーンで、全般的には能力上位の馬たちによる決着といえるでしょう。マイネルボウノットとバンブーエールは体調面が整っていなかったものと思います。

 明日は静岡記念の決勝です。並びは藤田-長塚-浦川の関東、小嶋-山口の中部、近畿単騎の村上に新田-望月の地元静岡。渡部は単独。ここは新田選手◎から。小嶋選手○を相手に、村上選手▲と長塚選手△も。

 これで、共通概念notiones communesと事物の本性essentiaとの間にある関係も判明したといえると思います。
 もちろん論理的に正しくいうなら、まず第二部定義二があって、そこからすべてのもの、あるいは複数のものに共通の事柄は個物res singularisの本性を構成しないという第二部定理三七が導かれ、それにより共通概念というスピノザの哲学に特有の概念が抽出されてくるのです。しかし、この手順を逆さに取れば、共通概念というのはすべてのもの、あるいは複数のものに共通の事柄であるがゆえに、ある特定の個物の本性を構成するということはないということを僕たちは認識するcognoscereことができ(共通概念は十全な観念idea adaequataなので)、このことから、第二部定義二の後半部分、すなわち、事物とは本性がなければあることも考えるconcipereこともできないものであるということだけでなく、本性もまた、事物がなければあることも考えることもできないものであるということを、本性の定義Definitioとして加えることが妥当であるということが分かるわけです。
 したがって僕のこの手続きを十分に正当なものとするためには、一般に人間精神mens humanaのうちには、少なくともひとつの共通概念があるということを証明しなければならないでしょう。しかしこれは逆にいえば、ただそれだけのことさえ証明してさえしまえばそれで十分であるということです。
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棋王戦&第二部定理三七証明

2007-02-11 22:04:58 | 将棋
 棋王戦五番勝負第一局。振駒で先手を得たのは挑戦者の佐藤棋聖。▲2六歩△3四歩▲7六歩△9四歩という立ち上がりから森内棋王の一手損角換り。双方が居玉のまま、先手が早繰り銀を繰り出し、後手が腰掛け銀で対応するという超急戦模様の将棋になりました。僕がアクセスしたのは12時半頃なので昼食休憩中。29手目、▲6三角と打ち込んだ局面でした。ここから△6四角と飛車取りに打ち、▲5五歩に△5四銀で角取り。これも取れないので▲8五角成△8四歩▲7五馬。これが2時前だったでしょうか。事情があって観戦はここまで。この後、△5五角▲4六銀△4四角もないことはないと思いますが、森内棋王は△7五同角でした。▲7五馬というのはせっかく作った馬を角と交換するわけで、部分的にはつまらない感じのする手ですが、交換後に5四の銀取りが残っているので、先手としても悪くはないのでしょう。また、後手が飛車先の歩を突いていなかったのを逆用した感もあります。終局後の8時過ぎにようやくネットを開いてその後の展開を見たのですが、この将棋はどこではっきりと形勢が傾いたのか僕の力では分かりません。最後は即詰みに討ち取って佐藤棋聖が先勝しています。この将棋は午後から公開対局でした。それを意識したということもないのでしょうが、両者が派手に立ち回ったという印象の将棋で、僕らレベルでこれをやると一方的に片がついてしまうのですが、さすがトッププロ同士で、終盤まで難解だったといえると思います。第二局は24日です。
 明日は佐賀記念です。JRA勢の争いと思いますが、上位拮抗で難しいです。中心にはマイネルボウノット◎を推します。相手の筆頭にはクーリンガー○で、次にバンブーエール▲。それからサイレントディール△で、地方勢からは愛知のキングスゾーン△を。

 第二部定理三七というのは、実は第二部定義二から導かれるべき事柄であって、実際にスピノザはそういう仕方でこれを証明しています、しかし定義二はここでのテーマですので、これを次のように証明してみます。今、Xがある属性の様態すべてに共通の事柄であるとします。すると、その属性の様態、たとえばAが消滅したとしても、X自体は何の影響も受けずにあることも考えることもできます。そしてXのAに対するこの関係は、Aだけでなく、この属性から生じるすべての様態に対して同一であるということになります。そこで、もしもAの方はXがなければあることも考えることもできないという理由(この理由は仮定です)によって、Aの本性をXが構成すると主張するなら、X(本性)がA(事物)に対する関係は、A以外のどの様態(つまりすべての事物)にも妥当であるわけですから、このことから、Xはこの属性に属するすべての様態の本性を構成するということになります。しかしこれをいうことは不条理です。したがって、Xはどの様態の本性をも構成することはできないということになり、つまり、すべてのものに共通である事柄(共通概念)は、個物の本性を構成しないということになります。そしてこれは、共通概念に一般の特質ですので、この場合のように、一般性の高い共通概念だけでなく、もっと一般性の低い共通概念の場合にも妥当するということになります。
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スカーレットインク&第二部定理三七の意味

2007-02-10 21:26:44 | 血統
 川崎記念を勝ったヴァーミリアンの母系の紹介です。
 日本ではそれほど古い牝系でもなく、祖となっているのは1971年にアメリカで産まれたスカーレットインク(4-d)。ファンシミンとほぼ同時期に、同じ社台によって輸入されています。クズが出ない血統というところもそっくり、また、重賞での活躍馬を多く輩出しているわりに、なかなかGⅠに手が届かなかったところまで酷似しています。
 この系統で最初にそのジンクスを破ったのが、2004年の皐月賞を勝ち、昨年はJRA賞の最優秀短距離馬に選出された現役のダイワメジャー。ヴァーミリアンはスカーレットインク系からの2頭目のGⅠ馬ということになります。この2頭はスカーレットインクで初めて同一の母系祖先に辿りつきます。ヴァーミリアンにとっては曾祖母、ダイワメジャーにとっては祖母ですので、ヴァーミリアンからみるとダイワメジャーは母の従弟ということになるわけです。

 明日は棋王戦五番勝負の第一局が指されます。森内俊之棋王に佐藤康光棋聖が挑戦。通算成績は23勝23敗とまったくの五分です。

 第二部定理三七の意味については、それ自体では難しい部分はないと思います。ただ、ここではすべてのものに共通といわれていますが、スピノザ哲学でいわれる場合の共通点の意味から考えると、すべてのものといっても、同一の属性attributumに属するということをスピノザは前提とはしているだろうと思います。もっとも、共通点のないもの、すなわち実在的に区別されるものの間には、当然のことながら共通の性質というもの自体があろう筈もありませんから、この前提は不要ということもできるでしょう。
 ところで、ドゥルーズGille Deleuzeは共通概念notiones communesには一般性の高いもの、すなわち、共通の性質を含む個物res singularisがより多い場合と、一般性の低いもの、すなわち、共通の性質を含む個物が少ない場合があると指摘しています。それでみればこの定理Propositioは、同一の属性に属するすべてのものに共通の場合がいわれていますから、一般性の高い共通概念の場合であることになります。しかし、ある性質がAとBにだけ共通で、ほかのすべてのものには共通でなかったとしても、これがAとBにとっては共通概念であることには変わりありません。したがって、この定理Propositioから、共通概念に一般の特質proprietasとして論理的に導かれることは、一般性が高かろうと低かろうと同様に妥当するということになります。
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女流名人戦&第二部定理三七

2007-02-09 21:34:20 | 将棋
 昨日は女流名人戦五番勝負第一局も指されました。矢内理絵子女流名人に挑戦するのは中井広恵女流六段。
 振駒で中井六段の先手となり横歩取り☖3三角、☖8四飛の戦型に。矢内名人は5筋の位を取り、44手目の☖2六歩から先手の飛車を抑え込む作戦に。中井六段が右の金を繰り出し49手目の☗2六金に☖同角☗同飛☖3五金☗2八飛☖2六歩と、角金交換の駒損に甘んじても飛車を徹底的に抑え込んだ構想が好判断だったようで、62手目、☖3六銀成とした局面でははっきりと優勢に立ったと思います。ここから中井六段が勝負手を連発して追い込んだのですが、最後は92手目の☖5七角から先手玉を長手順の即詰みに討ち取り矢内名人が先勝しました。五番勝負の第一局を後手番で制したのですから大きい勝利といえるでしょう。
 横歩取りの将棋は駒の損得よりも、抑え込むか食い破るかという将棋になるケースが往々にしてありますが、この将棋もそうした将棋だったということだと思います。第二局は15日です。
 ところで、女流プロは将棋連盟から独立して新法人を組織するという動きがありますが、この対局者のふたりはその新法人設立準備委員会の委員を務めています。この件についてもいずれ書きます。

 明日から静岡記念です。

 このブログで最初にテーマにした第二部定理一二については、そのときも、また今でも僕は明確な結論を出せないでいるのですが、その中で、ひとつの解決方法として、共通概念notiones communesに訴えるという方法があるといいました。実は僕は、ここでの話は少なからずこの共通概念の理論と関係していると思っています。
 この共通概念の理論というのは、スピノザの哲学の中でも重要な理論のひとつで、また、僕が知る限りではスピノザの哲学に独特の理論なのですが、もしかするとスピノザは、事物の本性essentiaというのを第二部定義二のような仕方で定義することができたからこそ、共通概念という概念を理論的に抽出することも可能になったといえるのかもしれません。ここではその第二部定義二の方をテーマとして扱っていますので、事物の本性と共通概念の関連性を考えていくために第二部定理三七を取り上げることにします。
 「すべての物に共通であり(これについては先の補助定理二を見よ)、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるものは、決して個物の本質を構成しない」。
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王将戦&事物と本性

2007-02-08 21:37:56 | 将棋
 王将戦七番勝負第四局。今日もネットに接続できたのは6時半過ぎで、101手目の▲7九銀の局面でした。以下、△7八銀成▲同銀と進んだので、▲6七金から千日手もあるのかと思いましたがここで△6七歩成。▲同銀で有効な攻め筋があるのか疑問に思っていたところ、△7七角成といったので驚きました。しかしこれは結果的にみても暴発だったと思います。以下、▲同桂に△6八金と喰らいつきましたが、▲6三歩成△6七金に▲5五角が詰めろ逃れの詰めろで大勢が決してしまいました。ここからは僕にでも分かりやすいほどの大差で、123手で羽生王将の勝ち。僕が見始めた局面から考えると、やけにあっけない幕切れのように感じたのですが、佐藤棋聖は中盤の段階からずっと非勢を意識していたようで、おそらくこの手順のうちに見落としがあったというわけではなく、仕方なかったのかもしれません。この将棋は双方の飛車が共に攻めに関してはまったく働かなかったという印象で、こういう将棋というのは珍しいのではないかと思います。これで羽生王将の3勝1敗。防衛に王手が掛かりました。第五局は15日と16日に指されます。

 それでは、スピノザによる本性の定義である、事物がなければ本性はあることも考えることもできないということを、本性の定義に加えることの正当性について考えてみます。具体的には三角形の場合で説明したので、ここではもっと一般的にいきます、今、Aという事物があって、この事物がXなしにはあることも考えることもできないとします。この場合、一般論ではXがAの本性を構成するということになるわけです。しかしもしも、Xの方は、Aがなかったとしても、Bさえあればあることも考えることもできると仮定します。すると、もしもこのとき、XがAの本性を構成するならば、XのAに対する関係とBに対する関係はまったく同一なわけですから、XはBの本性も構成すると論理的にはいわなければならないということになります。すなわち、Aの本性もBの本性もXという同一のものであるということになります。しかしこれは、各々の事物にはそれぞれ固有の本性がなければならないということに反するので不条理です。あるいは、この場合にはAとBは同一のものであるといわなければならないでしょう。したがって、事物がなければ本性もあることも考えることもできないということを本性の定義に加えることは妥当だということになるのです。
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グランプリカップ&本性の定義

2007-02-07 22:13:15 | 地方競馬
 グランプリカップ
 ここは逃げ馬が1頭でしたので予想通りにベルモントソレイユの逃げ。2番手でプライドキムががっちりとマークし、シーチャリオットはインの好位に控えました。最初の400メートルが早かったので、前半の800メートルは48秒5。ハイペースとはいえませんが、僕が想像していたよりは速いペースでの競馬となりました。
 馬順の変動としては向正面でキャプテンシーオーが上がっていったことくらい。絶好の手応えで2番手を進んでいたプライドキムが、直線に入ると難なく抜け出して、船橋記念に続いて重賞2連勝となりました。
 距離は伸びていましたが、能力的にここではそんなことは問題にならなかったようです。斤量関係も有利でした。
 2着にはうまく捌いたシーチャリオット。東京ダービーを勝ったほどの馬で、僕も復活を期待していますが、1馬身差まで迫った内容から、その足掛かりはつかんだといえそうです。
 逃げ粘ったベルモントソレイユが3着。上位2頭は強いですから、健闘したといえるかもしれません。なお、タカラアジュディが競走を中止しています。

 今日から王将戦七番勝負の第四局が指されています。羽生王将が先手で佐藤棋聖のごきげん中飛車。先手は佐藤流で後手は△7二金。佐藤棋聖の将棋でいえば竜王戦七番勝負第二局と同じ型。封じ手局面ですが、後手の2筋からの攻めが緩和されている分、先手がやれるように思えます。

 ここまでくれば、スピノザがなぜ事物の本性を第二部定義二のように定義したか、また、僕がなぜこのスピノザによる本性の定義を、事物の本性の定義として完全なものであると考えるかが分かると思います。すなわち、それがなければあるものがあることも考えることもできないとき、それがあるものの本性を構成するという一般論は、様態の本性に神の本性が属するか、そうでなければ、様態は神がなくてもあることも考えることもできるということの、どちらかを帰結させるのです。ところが、これはどちらの場合も不条理です。したがって、この一般論は誤謬であるということになるのですが、しかし、本性がなければ事物があることも考えることもできないということ自体は誤りではありません。
 なので、そのことを本性の定義に含ませ、かつ、不条理な結論を導き出さないために、スピノザは、それがなければあるものが、逆にあるものがなければそれが、あることも考えることもできない場合に、それがそのあるものの本性を構成すると定義し、僕もこれが完全な定義であると考えるのです。
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四日市記念&一般論の誤謬

2007-02-06 22:34:16 | 競輪
 四日市記念決勝(動画)。渡辺選手がSを取って小嶋選手を迎え入れ、このラインの前受け。中団4番手に平原選手、後方7番手から三宅選手で、堤選手は瀬戸内ラインともいえるここを追走。残り3周のバックから早くも三宅選手が上昇。小嶋選手はすぐに引きました。残り2周のホームから今度は小嶋選手を牽制しつつ平原選手が上昇。打鐘で三宅選手を抑えて先行態勢に入りました。これをホームから小嶋選手が発進。平原選手も踏んで先行争いかと思いましたがあっさりと小嶋選手と渡辺選手で出きりました。三宅選手も捲れなかったのでこのふたりの争いに。直線に入っても小嶋選手のスピードが衰えず、粘っての優勝となりました。2着にマークの渡辺選手、3着は平原選手の番手から宗景選手でした。優勝した石川の小嶋敬二選手は、昨年は記念競輪およびビッグでは優勝はなく、一昨年の名古屋記念以来の記念競輪優勝。今日のレースを見ても分かるように、力が衰えているわけではなく、爆発力という点では現在でも競輪界でトップクラス。最近は準決勝で失敗するケースが多いように見受けられ、そのあたりが課題といえるでしょう。渡辺選手は立川記念に続きここも2着。この記録、どこまで続くのでしょうか。
 明日は船橋でグランプリカップ。一気の距離延長ですがプライドキム◎が中心。負かすとすればシーチャリオット○でしょう。あとは伏兵の域で、メジャーワールド△、グッドストーン△、タカラアジュディ△の順。

 これで本性の定義に関する一般論には、明確な誤謬があるということが証明できたと思います。なぜなら、この一般論からの帰結として、神の本性に様態の本性が属するか、そうでなければ、様態は神がなくてもあることも考えることもできるということが出てくるのですが、このうちの神がなくても様態はあることも考えることもできるという後者の場合が誤りであるということについてはおそらく論争にすらならないでしょうし、前者の神の本性が様態の本性に属するという点については、それを事物には固有の本性があるという点、そして一般的な観点および具体的な観点から考えてみた結果として、どの場合でも、それが不条理であるという結論が得られたからです。しかし一方で僕は、スピノザがいうように、本性をこう定義付けた人たちが、実は本性について首尾一貫した意見を持ち合わせてはいなかったのだとしても、この一般論が完全に誤りであるとまでいう気にはなれません。少なくとも、確かに事物というのは、その本性がなければあることも考えることもできないものなのであって、この点に注目する限りでは、この一般論は正しいことをいっていると思えるからです。
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SUWA&第二部定理一〇証明

2007-02-05 22:16:57 | NOAH
 以前にはるかマニアとして紹介したSUWA選手ですが、5月にプロレスラーを引退することになりました。まだ31歳。プロレスラーとしてはこれから盛りを迎える年齢で、残念ではありますが、本人の人生設計の上で、いろいろと考えがあったようです。闘龍門でデビューし、2年半ほど前からNOAHに参戦。最後まで所属レスラーにはならず、フリーの立場を通しましたが、それ以降はほぼNOAH一筋でした。タイトルマッチで反則負けをしてみたり、クラッチするときに左右の指を交互に交差させたりと、やや異色な面もありましたが、それがこの選手の輝きに結びついていたと思います。三沢選手の初防衛戦が行われた武道館大会がNOAHでのラストマッチ。思い出作りをしたいという本人の希望で、高山選手、鈴木選手と組んで、力皇選手、丸藤選手、KENTA選手との試合。鈴木選手がKENTA選手にゴッチ式のパイルドライバーを決めたところでなぜか味方の鈴木選手を襲撃。返す刀で高山選手も襲い、そこからは鈴木選手のスリーパー、丸藤選手の不知火、力皇選手の無双、高山選手のニーリフト、KENTA選手のGo2スリープを立て続けに喰らって華々しく散りました。最後までSUWA選手らしい試合を見せてくれたと思います。
 明日は四日市記念の決勝。並びは平原-宗景の関東に佐藤、小嶋に渡辺-高木の南関東、三宅-井上の岡山で、堤は単騎。ここは小嶋選手◎と平原選手○の自力型の力勝負と思います。あと渡辺選手▲と佐藤選手△。

 第二部定理一〇のスピノザによる証明は、その過程で第二部定義二を用いています。しかし今はまさにその第二部定義二をテーマとしているわけですから、これは適切とはいえないでしょう。しかしこの後の備考にも触れられている通り、この定理はほかにもいくらでも証明の方法があります。ここでは最も簡単に、前回のテーマである第一部定理五に訴えることにします。このことから、もしもあるものXがあって、Xに神の本性、すなわち実体の本性が属するなら、複数のXは存在し得ないということが明らかになります。ところが現に複数の人間、すなわち同一の本性(人間本性)を有する多数の人間が実在します。したがって人間の本性には実体の本性は属さないということが証明でき、つまり人間の本性には神の本性は属さないということが、論理的に確証されます。よって、一般的に様態の本性に神の本性が属するということは誤りであることになります、たとえ人間以外のすべての様態に神の本性が属するとしても(もちろんこれも誤りです)、様態である人間の本性に神の本性が属さない以上は、少なくともそのことを一般的にいうことはできなくなるからです。
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フォーリンカップ&第二部定理一〇

2007-02-04 21:47:01 | 競輪
 四日市記念2日目優秀として行われたフォーリンカップ。
 北日本は佐藤選手が前、渡辺選手は関東を追走しました。
 前で受けた小嶋選手を残り2周のホームから平原選手が上昇し抑えにいくと、三宅選手はこちらを追走。結果、内で小嶋-山口-佐藤-成田、外で平原-後閑-渡辺-三宅-井上で併走。バックで平原選手が抑えると、渡辺選手まで出きりました。この4番手を残り3人の自力型がみんな確保しにいったのでごちゃつき、打鐘で成田選手と三宅選手が落車(ふたりとも再乗)。平原選手が外で流したので最も内にいた小嶋選手がこのラインを掬って先行、山口選手も続きました。3番手は平原選手がやや踏み遅れた感じで内から佐藤選手が確保。小嶋-山口-佐藤-平原-後閑-渡辺-井上で一本棒。しかしバックでは佐藤選手と平原選手の車間が大きく開いてしまい、前3人の争いに。強風だったようですがものともせずに小嶋選手が逃げ切って1着、番手の山口選手は追走で一杯、直線で外を踏んだ佐藤選手が差して2着、山口選手が3着でした。
 アクシデントがあったとはいえ、平原選手は流すならインを開けるべきではなかったということでしょう。

 同じことを今度は具体的に示してみます。そのために第二部定理一〇。
 「人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相を構成しない」。
 スピノザが有というとき、僕は実在性realitasを含むものとしての存在existentiaのことと理解します。そして実在性とはpotentiaという観点からみた限りでの本性essentiaにほかならないと考えますので、ここではこの定理Propositioの有を本性と理解します。なお、この定理の後半部分はここでは考えなくて構いません。
 次に、第一部定理一四により、自然のうちに実在する実体substantiaは神Deusだけですので、この実体を神と理解します。これは、この定理を実在的な意味に解釈するという意味も含みます。したがって、ここではこの定理を、人間の本性には神の本性は属さない、というように理解します。このような意味がこの定理に含まれていることは確実であると思われるので、おそらくこれは問題ないでしょう。また、この定理はとくに人間についてだけではなく、おおよそすべての個物(有限様態)res singularisに妥当だと思いますが、ここでの目的に照らせば人間についてだけ証明すれば十分だと考えます。
 人間が様態modi(延長の様態としての人間身体と思惟の様態cogitandi modiとしての人間精神mens humana)であることは明白で、人間について証明できれば、一般に様態の本性に神の本性が属するとはいえなくなるからです。
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スポーツとギャンブル&神の本性と様態の本性

2007-02-03 20:50:54 | 中央競馬
 有馬記念の記事に関してwan♪さんと多くのやり取りをさせてもらいました。そこでは触れませんでしたが、ひとつ感じたことがあったので書いてみます。僕にとって競馬というのは、スポーツであり同時にギャンブルです。競馬ファンというのはその間でバランスをとっているものだと思います。たとえば僕は、前日に予想をしていますが、これは競馬のギャンブルとしての側面。しかしレースの記事では配当がいくらであったということではなく、勝因や敗因の分析を主にしていて、これはスポーツの側面といえるでしょう。で、ギャンブルの側面からディープインパクトについて考えると、かなりの確率で勝ってくれるので投資しやすい反面、的中させても多くの配当を見込めないのであまり買いたくないという面もあるのです。僕はディープインパクトが国内で出走したレースは、弥生賞以降はすべてのレースを買っていて、ジャパンカップまではすべてこの馬から買っています。有馬記念で軽視したのは、最後の最後で僕自身が、無意識のうちにスポーツとギャンブルの間のバランスをとろうとしたからなのかもしれません。もしもスポーツ性を重視すれば、この馬の強さは分かりきっているのですから、そういう選択はあり得なかったと、今からすれば思えるのです。強者が勝つというのは、。スポーツにおける魅力のひとつであり、ディープインパクトのような絶対的な強者に熱中する人がいるのはよく理解できます。しかしその態度は競馬に関していえば、競馬のスポーツの側面に軸を置いたものであり、ギャンブルの側面を意識する人たちが、それに違和感を抱いたのだとすれば、それはそれで僕にはよく理解できます。
 明日は四日市記念の2日目優秀フォーリンカップです。並びは予想。佐藤-成田で北日本(前後は入れ替わるかも)、平原-後閑の関東、小嶋-山口の中部、三宅-井上の岡山、渡辺は関東か北日本。いずれにしろ後閑選手◎と平原選手○から、小嶋選手▲と渡辺選手△を絡めて。

 一般論からの帰結における前半部分、神の本性が様態の本性に属するというのは、いい換えるなら、神の本性を構成しているところのものが、様態の本性をも構成するということになります。もちろんこれは、神の本性と様態の本性が同一であるということではありません。それがどう違うのかといえば、たとえば第一部定理二〇に着目したとき、神の本性には神の存在が含まれるわけで、もしも神の本性と様態の本性が同一なら、様態の本性に神の存在が含まれるという意味になり、神の本性を構成するものが様態の本性も構成するなら、様態の本性にはその様態自身の存在が含まれるということになります。ただ、様態の本性に神の存在が含まれるというのは、それは様態の本性なのに神の性質を説明するわけですから、それ自体でこんなことはあり得ないでしょう。したがって、このいい換えは妥当であると僕は考えます。さて、第一部定理二四によれば、実際には様態の本性にはその様態自身の存在が含まれるということはありません。すなわち、神の本性を構成するところのものが、様態の本性を構成するということはないのです。したがってこれにより、神の本性が様態の本性に属するということが誤りであるということになると思います。
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タイキシャトル&第一部定理二四

2007-02-02 20:58:18 | 名馬
 日本テレビ盃を勝ったシーキングザダイヤの母、シーキングザパールを紹介したときに、彼女はJRA賞のどの部門でも代表馬に選出されなかったといいましたが、その理由のひとつが、同時代にもっと強い短距離馬がいたため。それが今日紹介するタイキシャトルです。
               
 デビューは3歳の4月と遅くなりましたが、そこから3連勝。次のレースは2着に負けたものの、秋になりユニコーンステークスGⅢ、スワンステークスGⅡと連勝、さらにマイルチャンピオンシップGⅠ、スプリンターズステークスGⅠも勝ちました。
 翌年春、復帰戦の京王杯スプリングカップGⅡをレコードタイムで楽勝すると、極度の不良馬場で争われた安田記念GⅠを外から豪快に追い込んでGⅠ3勝目。フランスに渡りジャックルマロワ賞GⅠを勝ちました。これはシーキングザパールのモーリストギース賞GⅠ制覇の1週間後。ただ、モーリストギース賞とジャックルマロワ賞では、同じGⅠでも伝統的な格式にやや差があり、ヨーロッパの競馬関係者にしてみれば、こちらを勝たれた方がより衝撃的だったと思われます。
 帰国初戦となったマイルチャンピオンシップは5馬身もの差をつけ楽勝。引退レースとなったスプリンターズステークスこそ太目が残って3着(2着にシーキングザパール)と負けましたが、13戦して11勝、2着1回、3着1回とほぼ完璧な成績を残した馬。4歳時には年度代表馬に選出されています。
 種牡馬入りしてからも、2003年のNHKマイルカップを勝ったウインクリューガー、2005年のフェブラリーステークスを勝ち、昨年のスプリンターズステークスでも2着に頑張った現役のメイショウボーラーなどを出し、成功を収めています。

 明日から四日市記念が開催されます。

 続いて第一部定理二四です。
 「神から産出された物の本質は存在を含まない」。
 これも意味には難しいところがないので証明しますが、これは第一部定義一から簡単に証明できます。なぜなら、もしもあるものの本性essentiaに存在existentiaが含まれるなら、それは自己原因causa suiということなので、そのものは何かほかのものから産出されるということができません。したがってあるものが神Deusから産出されるのであれば、そのものは自己原因ではないのでその本性は存在を含まないということになるからです。
 ところで、第一部定理一六からして、様態modiというのは神から産出されるものなのです。また、これは個々の様態が実在的realiterであるということを含意するために第一部定理一六に訴えているだけであって、単に様態が神から産出されるということを示すだけであれば、様態は実体substantiaのうちにあるという第一部定義五と、自然Naturaのうちに実在する実体は神だけであるという第一部定理一四に訴える方がいいかもしれません。
 いずれにしても、この第一部定理二四の帰結として、どんな様態の本性にも、その様態自身の存在は含まれないということは明らかで、現在の目的からすれば、それが重要です。
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スペシャルウィーク&第一部定理二〇

2007-02-01 19:56:29 | 名馬
 栗東の角居勝彦調教師が初めての海外GⅠ制覇を達成したシーザリオ。この馬の父はスペシャルウィークという馬です。
 3歳時に東京優駿(日本ダービー)GⅠを勝ち、ほかに菊花賞GⅠで2着、皐月賞GⅠとジャパンカップGⅠ(勝ったのはエルコンドルパサー)に3着。4歳時には天皇賞(春)、天皇賞(秋)(このときの2着はステイゴールド)、ジャパンカップとGⅠ3勝。ほかに宝塚記念GⅠと有馬記念GⅠで2着。かなりの活躍をした馬で、JRA賞年度代表馬に輝いたディープインパクトの出現までは、サンデーサイレンス産駒の最強馬であったと思います。
 そしてこの馬は母系を辿りますとフロリースカップにいきつきます。この馬も第四フロリースカップシラオキの分枝ですのでウオッカと同じ。ただし、シラオキを基点とする一族の中では、繁栄している方ではありません。シーザリオのアメリカンオークス優勝に関して最大の快挙というのは、この馬が、このように明治時代から日本で脈々と受け継がれてきた牝系の馬が父であったということだと僕は思っています。

 それでは一般論からの帰結の前者の場合を、今度は『エチカ』に訴えることによって考えていくことにします。その手始めに紹介するのが第一部定理二〇。
 「神の存在とその本質とは同一である」。
 意味に難しい点はまったくないですから、いきなり証明します。
 まず、第一部定義六により神Deumは実体substantiamですので、第一部定理七によりその本性naturaに存在existentiaが属します。つまり神の存在は神の本性のみから生じます。したがって第一部定義八により、神が永遠aeternitatemであることが分かります。
 ところで、第一部定義四によれば、属性attributumは実体substantiaの本性を構成するessentiam constituensのですから、実体(神)が永遠であるならばその属性も永遠です。よって神の属性はすべて永遠であるということになります。ここでもう一度第一部定義八に注意してください。スピノザは永遠というのを概念notioとしてではなく、ある存在のことだと考えているのです。したがって、神の本性を構成する無限に多くの属性infinitis attributisの各々は、神の本性を表現するexprimitと同時に神の存在をも表現しているのです。要するに、神の本性を表現するものと神の存在を表現するものは完全に同一のものなのです。ゆえに、神の本性と神の存在は同一のものであるということになります。
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