新法人設立準備委員会によると、日本将棋連盟(理事会)は、要望を出した後で、女流棋士全員に手紙を送付したそうです。今日はこの手紙の内容について。ここで最も僕に重要と思えるのは、女流棋士が一致して独立するなら棋戦の管理と運営を引き渡す用意があるとしている点。手紙という私的なものですが、文書の形でこういう言質を取った意味は少なくないように思えます。引き渡す、ではなく用意があるといういい方は微妙ですが、おそらくこれは棋士総会の議決が必要なので、はっきりとはいえないのでしょう。準備委員会は、この手紙の後半部分について、女流棋士の結束を乱そうとしていると感じたようです。もちろん、そうした効果があるということは否定できないでしょう。ただ、僕も流れで書いたような決着を望みますが、そうなると決まったわけではなく、そうならない場合もあるでしょうから、そういう場合にはどうするかということを考えておくのは、そんなに不自然なこととは思えません。女流棋士が二派に分かれるというのがこの場合の最悪のケースと思いますが、そういうケースになってしまった場合については、準備委員会側も考えておくことだけはしておいた方がいいように思います。また、そもそも女流棋士が結束して行動するなら、この部分は何の意味ももたないのです。ですので、この手紙に対してこれだけ強く反発するというのは、やはり理事会に対する不信感とか怒りといった感情の方が先走っているように思えてなりません。僕は女流棋士が連盟から独立すること自体は賛成で、この点では準備委員会を支持しますが、こと、現状の理事会と準備委員会との対立という観点だけに着目する限りでは、双方が感情的に他方を非難しているように思え、残念ながらどちらも支持する気にはなれないのです。
明日は川崎でエンプレス杯。岩手のサイレントエクセルが取消で12頭。レマーズガール◎が勝つと思います。相手はまずサウンドザビーチ○で、あとトーセンジョウオー△、ペディクラリス△。僕は軽視しますがフサイチパンドラが圧勝というケースもあり得るでしょう。
責任という概念が一般的にはどのように考えられているかをみていく前に、人間の意志が自由なものであると僕たちが思っているとしたら、スピノザからすればそれは第一部定理三二により誤解であるわけですが、もうひとつ、よくある誤解の方を先にみておくことにします。それを示しているのが第三部定理二。「身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない」。ここでは、人間の身体が人間の精神をある思惟作用に決定することができるかどうかということは問題ではなく、人間の精神が人間(自分)の身体を運動や静止に決定できないということが重要になります。なぜなら、ある人間の意志作用というのはその人間の精神のうちに含まれるような思惟の様態であるのに対し、人間がある行為をなすというのは、その人間の身体のある運動にほかならないからです。したがってこの定理からみれば、人間の意志はその人間自身の行為を決定することはできない、いい換えれば、人間の意志は自身の行為の原因(第三部定義一の、十全な原因と部分的原因のどちらの意味でも)ではあり得ないということになります。つまり、人間の意志が自由なものであると考えることが誤りであるのと同様に、もしも人間が自分の意志によって自分の身体を動かし得ると考えるなら、スピノザの立場からはこれも誤りであるということになるのです。
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責任という概念が一般的にはどのように考えられているかをみていく前に、人間の意志が自由なものであると僕たちが思っているとしたら、スピノザからすればそれは第一部定理三二により誤解であるわけですが、もうひとつ、よくある誤解の方を先にみておくことにします。それを示しているのが第三部定理二。「身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない」。ここでは、人間の身体が人間の精神をある思惟作用に決定することができるかどうかということは問題ではなく、人間の精神が人間(自分)の身体を運動や静止に決定できないということが重要になります。なぜなら、ある人間の意志作用というのはその人間の精神のうちに含まれるような思惟の様態であるのに対し、人間がある行為をなすというのは、その人間の身体のある運動にほかならないからです。したがってこの定理からみれば、人間の意志はその人間自身の行為を決定することはできない、いい換えれば、人間の意志は自身の行為の原因(第三部定義一の、十全な原因と部分的原因のどちらの意味でも)ではあり得ないということになります。つまり、人間の意志が自由なものであると考えることが誤りであるのと同様に、もしも人間が自分の意志によって自分の身体を動かし得ると考えるなら、スピノザの立場からはこれも誤りであるということになるのです。