スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感⑧&自己原因論争

2021-01-23 19:32:16 | NOAH
 天龍の雑感⑦の最後のところで,天龍源一郎ジャンボ・鶴田は孤独だったかもしれないと言っています。もしもプロレスラーの中で心を許した存在がいるなら,三沢光晴くらいだったのではないかというのが天龍の推測です。三沢は鶴田の付き人であり,かつアマレス出身であったということが,天龍がそのように推測している理由です。これはあくまでも天龍の推測であって,実際に鶴田が三沢に対しては,ほかのレスラーたちとは異なった感情をもっていたかは分かりませんが,仮に天龍のいうことが本当であったとしても,三沢というのは鶴田からみればかなり後輩にあたりますから,心を許せる相手がそれくらいしかいなかったのであれば,鶴田が孤独であったというのは事実であったと思われます。
 一方で天龍は,この点に関して,興味深い推測も行っています。鶴田は,全日本プロレスに就職するといって入団したレスラーでした。周囲の人間,たとえば大学時代の同窓生などは,一般の会社に就職していましたので,実は鶴田はそこに負い目を感じていたかもしれないというのが天龍による推理の中心です。この負い目があったために,鶴田はことさらに一般人と同じような生活をしたいという願望があり,しかしプロレスというのは必ずしも一般社会のすべてから歓迎されるものではないため,その部分で鶴田には葛藤があったのではないかと天龍は言っています、天龍には,鶴田が盛んに社会に溶け込もうとしているように見えていたようで,その部分からもこうした推測が成り立つとみています。鶴田が日本テレビのプロデューサーやアナウンサーと親密に付き合っていたのは,必ずしも鶴田の本意ではなかった可能性もあるかと思いますが,それは社会に溶け込もうとする鶴田の願望から出たものだったという可能性もあり得るでしょう。
 天龍が日本に定着して仕事をするようになったのは1981年からで,これは僕のプロレスキャリアが始まる頃と重なっています。この年の暮れ,馬場は全日本プロレスの会長になり,日本テレビにいた松根光雄が社長になりました。そしてその直前には,佐藤昭雄がブッカーとなっています。これは馬場の本意ではなかったのですが,馬場と日本テレビの関係から,馬場が日本テレビの要求を断れずに生じたことでした。

 再び松田のいい方に倣うなら,スピノザが目撃していた論争,実際に当時からそのようないい方がなされていたかはともかく,自己原因論争がどのような論争であったのかということを詳しく考察することは,かねてから僕がやってみたいと思っていた考察,すなわちデカルトRené Descartesが同時代人の思想家の中で,どれくらいスピノザに近かったかということを解明するのに,適切な考察のひとつであると考えられます。デカルトは自己原因causa suiを起成原因causa efficiensとは認めないので,いい換えれば神Deusが自己原因であるということは認めないので,その点ではスピノザと隔たりがあります。しかし一方で,デカルトが実際に行った自己原因論争がどのような論争であったのかということを考察することで,論争した相手,いうなればデカルトの論敵となった思想家と比べれば,デカルトがいかにスピノザの哲学に近かったのかということも分かるのです。
                                        
 松田の論文そのものは,基本的に『省察Meditationes de prima philosophia』でデカルトが記述していることが下敷きとなっています。この『省察』にはその思想に対する論駁があって,さらにその論駁に対してデカルトは答弁しています。この中に,自己原因に関連する論駁とその答弁があります。もっと広い意味での自己原因論争というのは,ふたつの主題があり,ひとつは自己原因という概念notioの整合性に関係します。要するに自己原因というのを原因としてみなしていいのかどうかということが主題です。もうひとつは,神を自己原因と規定することの是非に関連する論争です。この論争は1640年代から1650年代にかけて展開されました。松田によればこの論争を展開したのはデカルトのほかには,カテルスJohannes Caterus,アルノーAntoine Amauld,レヴィウスJacobus Reviusuで,さらにデカルトの死後にはクラウベルクJohannes Claubergが参加しました。ですがここでの目的に照らし合わせても,この広い意味での論争のすべてをここで考察の対象とするわけではありません。松田が論文の中心としている,『省察』およびその論駁と答弁におけるデカルトの記述のみが対象になります。
 『省察』に対する第一の論駁は,オランダの司祭であったカテルスという人物によってなされました。思想家ではなく司祭の立場からです。
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