スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

動機と欲望&分割不可能性

2021-01-16 19:06:20 | 哲学
 フロムErich Seligmann Frommが『愛するということThe Art of Loving』の中で,動機という語句を用いるとき,スピノザの哲学に関連する説明として気を付けておかなければならないことを,まとめておきましょう。
                                        
 まずこの動機を,スピノザがいう意味での原因causaとして解さなければなりません。スピノザが原因というとき,それは一律に起成原因causa efficiensを意味するのでした。したがってフロムの説明をスピノザの哲学に関連する説明として正しく解釈するために第一に必要とされることは,フロムが用いている動機という語を,起成原因と解することです。フロムの説明だけだと,この動機は目的原因causa finalisを意味すると解することが可能ですし,一般に動機という語が日本語において意味するところが,そのような性質を帯びています。しかしスピノザは目的原因なる原因が存在するということを認めず,起成原因だけを原因として認めるのですから,動機を目的としての動機と解するなら,スピノザの哲学に対する説明としては適切ではない,もっというなら誤りerrorであるということになります。
 次にスピノザは,第三部定理二にあるように,人間の精神mens humanaが人間の身体humanum corpusを運動motusや静止quiesに決定するdeterminareことはできないと考えています。したがって,フロムがいっている動機というのを,単に起成原因と解すればそれで十分であるというわけではなく,身体の起成原因すなわち身体の動機と解する必要があります。逆にいえばこれを精神の動機すなわち精神による起成原因であるというなら,これは不適切というには不十分なのであって,単に誤りであるというべきでしょう。ここでもフロムの説明は,あたかも人間の精神のうちに発生している動機が,その人間の身体をある行動に移していると解せるようになっていますし,一般に動機というのは人間の身体に発生するものではなく,人間の精神に発生するものという意味を伴っていますが,このような考え方はスピノザの哲学では成立しないのです。
 したがってこの場合には,第三部定義三にあるような,人間の精神にも人間の身体にも適用可能な概念notioとしての感情affectusとして動機を解する必要があります。そして動機の場合には,とくに欲望cupiditasという感情で理解するのが正しいことになるでしょう。そしてその際には,目的と欲望とを混同しないことも当然ながら必須であるということになります。

 デカルトRené Descartesの哲学はスピノザの哲学と異なり,無限に多くのinfinita属性attributumがあるということは考慮に入れません。というか,デカルトの哲学では,属性が実体substantiaの本性essentiaを構成するというようにはなっていないので,実際には属性について考えるのではなく,実体について考えなければなりません。ただ,ここでは考察を分かりやすくするために,デカルトは無限に多くの属性があるということは考慮せず,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumという,スピノザの哲学でいうなら人間が認識するcognoscereことができる属性だけに着目しているといっておきます。他面からいえば,属性は延長と思惟の二種類しかないというのがデカルトの考え方だとしておきます。
 このとき,物体的実体substantia corporeaと思惟的実体は,別の実体としてデカルトの哲学では規定されているわけです。したがって形而上学の上での構造としては,ある実体が単一の属性によってその本性を構成されるという形式となっています。二種類の属性しかないとされているので,必然的にそのようになっているという見方はできますが,少なくとも実体がその属性によって分割され得ることが可能になっていることは間違いありません。それが不可能であるということが直ちに帰結するわけではないのですが,形式的にはこのようになっているのです。
 ガリレイGalileo Galileiはこのような形而上学的な事柄は何も意識していなかったでしょう。ですがそれがデカルトとスピノザのどちらに近いのかといえば,スピノザの方に近いことは明らかです。少なくともここで探求した内容からいえば,ガリレイの形而上学は,属性によって実体は分割することができないということを肯定しなければならないからです。スピノザが延長の属性を神Deusの属性に帰するときに,このことが必須の条件となるわけではありません。むしろスピノザにとってもっと重要だったのは,延長の属性それ自体が分割不可能なものであるということを示すことだったのは確実です。その意味でいうなら,実体としての量という形而上学的概念の方が,実体の属性による分割不可能性よりもずっと重要だったでしょう。そしてそのどちらも,ガリレイがおそらく意図しなかったであろう形而上学に一致するのです。
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