スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&大きな相違

2021-01-25 18:59:22 | 将棋
 出雲文化伝承館で指された昨日の第47期女流名人戦三番勝負第二局。
 里見香奈女流名人の先手で5筋位取り中飛車。居飛車穴熊に囲った後手の加藤桃子女流三段が玉頭方面から攻勢に出る展開。巧みな仕掛けだったようで優勢に持ち込みました。
                                        
 ここで☖2六歩と打ちましたが,この手はぬるかったという局後の反省があります。
 ☗3二龍☖2七歩成☗同王☖1七香成☗3八王が実戦の進行。
                                        
 第1図の☖2六歩がぬるかったのは,この間に先手に攻めの一手を与え,さらに先手の玉が逃げていくことになったためで,第2図は混戦となっています。第1図では単に☖1七香成とすれば☗3八玉は☖2七成香ですから☗同玉と取るほかなく,そこで☖1九飛と打っておけば優勢を維持することができたものと思います。
 里見名人が連勝。第三局は来月7日に指される予定です。

 スピノザの哲学では,原因causa,外部の原因が,自己原因causa suiのようなものとして考えられなければならないのです。ですから自己由来的ということこそ積極的に解されなければならないのであり,外部に原因があるといわれる場合の原因,自己由来的という語に対比させていえば,他者由来的ということが,それよりは消極的に解されるべきなのです。それに対してカテルスJohannes Caterusの因果関係の規準は外部に原因がある場合の原因と結果effectusですから,他者由来的ということこそ積極的に解されなければならず,自己由来的ということは消極的に,すなわち原因を有さないという程度の意味に解さなければならないのです。この対比から,カテルスの見解opinioとスピノザの思想がいかにかけ離れているのかが理解できるでしょう。
 この論駁は『省察Meditationes de prima philosophia』に対してなされたものですから,答弁はデカルトRené Descartesが行っています。そこでまずデカルトがいっているのは,何かが自己自身の起成原因causa efficiensであることが不可能であるとは私,すなわちデカルトはいわなかったというものです。つまりデカルトは,『省察』の中で,自己自身が起成原因であるものが存在することは不可能であるとはいっていないのです。
 原因は結果に対して本性naturaの上で先立つのであり,それが現実的なものとして考えられる場合には,時間的な意味でも原因が結果に先行していなければなりません。そこでもし起成原因という概念notioが,この時間の関係を含意しなければならないのであれば,それ自身が起成原因であるものが存在することは不可能です。そうしたものは原因が時間の上で結果に対して先行するということは不可能だからです。したがってデカルトの答弁が実際に意味していることは,起成原因という概念は,こうした時間の関係を考慮しなくていい,他面からいえば,起成原因という概念は,原因と結果の時間の関係には制約を受けないということなのです。むしろ起成原因という概念を考察するために必要なことは,それが存在する原因が何であるのかということを問うことが許されないようなものは何も存在しないということ,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』でいえば第一部公理十一でいわれていることなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする