スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典川崎記念&第一答弁

2021-01-27 19:21:55 | 地方競馬
 第70回川崎記念
                                        
 カジノフォンテンが楽にハナに立ち,2番手にダノンファラオで3番手にタービランス。4番手はハナズレジェンドとロードブレス。6番手以下はデルマルーヴル,オメガパフューム,ミューチャリー,マインシャッツ,メイショウオオゼキの順。川崎の2100mは発走後の向正面では縦長になるケースが多いのですが,このレースはそれほどではありませんでした。超スローペース。
 2周目の向正面に入るところでカジノフォンテンのリードは2馬身くらい。2番手のダノンファラオが差を詰めていきましたが,1馬身くらいのリードをカジノフォンテンは保ち続けました。3番手はタービランス,ロードブレス,1周目の正面で外を進出したオメガパフュームの3頭。6番手にハナズレジェンドとデルマルーヴルで,その直後のミューチャリーまでの8頭が圏内。最終コーナーでも逃げたカジノフォンテンの手応えは楽。ダノンファラオが押してついていこうとしましたが,再び差が開くことに。そのまま楽に逃げ切ったカジノフォンテンが優勝。ダノンファラオの外から差し込んだオメガパフュームが3馬身差で2着。ダノンファラオが4分の3馬身差の3着で,ダノンファラオの内から追ってきたタービランスが半馬身差の4着。
 優勝したカジノフォンテン勝島王冠以来の勝利。重賞初制覇での大レース制覇。ここはオメガパフュームの能力と実績が上でした。しかしオメガパフュームが最も得意とする大井の2000mで接戦を演じたカジノフォンテンは,川崎に変わって逆転もあり得るとみていました。馬場状態の関係で逃げた馬が有利になった上に,かなり楽なラップで逃げられましたから,その分の差もあったとは思いますが,3馬身の差をつけているわけですから,少なくとも現時点でオメガパフュームと同等の力はあると考えるべきだと思います。父は2008年にピーターパンステークスを勝ったカジノドライヴ。母は2002年にスパーキングレディーカップ,2003年にエンプレス杯,2005年に報知グランプリカップとTCKディスタフを勝ったジーナフォンテン。その父は1996年に中山金杯,1997年に中山金杯と東京新聞杯を勝ったベストタイアップ
 騎乗した船橋の張田昂騎手はデビューから7年7ヶ月で重賞初制覇となる大レース制覇。管理している船橋の山下貴之調教師は開業から5年2ヶ月で重賞初制覇となる大レース制覇。

 『省察Meditationes de prima philosophia』の本文には,自己原因causa suiという語句は用いられていません。本文で用いていない語句を,デカルトRené Descartesはわざわざ第一答弁の中で用いているのです。つまり,カテルスJohannes Caterusが指摘している自己由来的であるということは,自己原因に関係する論駁であるとデカルトは解したことになるでしょう。さらにこの自己原因について,汲み尽くすことができないほどの力potentiaといっているのですから,デカルトが自己原因を積極的なものとして,すなわちそれ自体を力として解釈していることも明らかです。いい換えれば,自己由来的ということを,デカルトは積極的に,それもかなり積極的に解していることも明白だといえます。つまり,自己由来的であるということを積極的に解してはならないというカテルスの論駁に対する答弁は,それを積極的に解してもよいというものであったということが,この部分では強調されているといえるでしょう。
 さらにデカルトはこの自己原因を神Deusと関連付けた言及もしています。神は自己自身に対して,起成原因causa efficiensが結果effectusに対する関係とある意味で同一の関係に立つ,というのがそれです。したがってデカルトによれば,神が積極的な意味において神自身によって存在すると解すること,あるいはそう思惟することが僕たちには許されるということになります。他面からいうと,デカルトは神の存在existentiaを積極的に思惟するためには,自己由来的であるということを積極的に解する必要があって,もし自己由来的であるということを消極的に解する場合は,神の存在を僕たちは因果性の原理に基づいて考えることができなくなるという危惧があったのだと思います。カテルスとデカルトの決定的な相違はその点にあったというべきでしょう。
 自己由来的であるということを積極的に解すること,自己原因を積極的な力とみなすことにおいて,デカルトはカテルスよりもずっとスピノザに近付いているといえます。少なくともカテルスの論駁の中心となっている点,すなわち自己由来的であるということを積極的に解してはならないという点についていえば,スピノザの立場はデカルトの立場,すなわちそれを積極的に解するべきであるという立場と一致するでしょう。
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