12月30日に平塚競輪場で争われたKEIRINグランプリ2020。並びは新田‐佐藤‐守沢の北日本,郡司‐和田の南関東,脇本に平原,松浦‐清水の中国。
スタートは取り合いになりましたが,松浦が誘導の後ろに入って前受け。3番手に郡司,5番手に新田,8番手に脇本で周回。残り2周まで動きがなく,打鐘前のバックから脇本が発進。松浦が外に振りましたが,乗り越えて脇本の先行。松浦は一旦は番手を取りにいったものの,ホームで平原が確保。3番手に松浦,5番手に郡司,7番手に新田という一列棒状に。バックから郡司が発進。これに合わせて松浦も発進。しかしこのふたりは前には追いつけませんでした。松浦マークの清水は一旦は内を回り,最終コーナーで外へ。これを平原が牽制。これで脇本と平原の間が空き,郡司マークの和田がそこを突き,直線では突き抜けて優勝。逃げ粘った脇本が4分の3車身差で2着。和田が通ったコースをそのまま追い上げてきた佐藤が8分の1車輪差で3着。
優勝した千葉の和田健太郎選手はこれが初めてのビッグ制覇。グレードレースは2019年の京王閣記念以来の優勝。2020年は記念競輪も優勝していなかったのですが,ビッグの決勝には4回進出。これは郡司をマークする競走が多かったためで,ここも郡司マークからチャンスをものにしました。グランプリの優勝選手は番組の配慮を受けやすく,郡司のほかにも松井がいて,深谷も静岡に移籍しましたので,2021年も安定した成績を残せるのではないでしょうか。
スピノザは,哲学ないしは形而上学が,あらゆる学知scientiaを下支えすると考えています。第一部定理三一備考は,知性intellectusについて,それは現実的であって可能的ではないといっているのですが,このことは広く一般に妥当するのであって,この備考Scholiumは力potentiaというのは現実的なものにほかならず,潜在的なものではないということの一例なのです。たとえば人間の理性ratioというのは,人間が有するひとつの力であるとみることができます。しかしスピノザは,それを潜在的な力としては認めません。たとえば人間が理性的な振る舞いをしている限りにおいて,理性は確かに人間の現実的な力であるのですが,非理性的に,たとえば受動的な欲望cupiditasに流されている限りにおいてはその人間が理性という力を有しているとは認めません。いい換えれば,受動的な欲望に流されている人間に潜在的な理性という力がある,というような見方は否定するのです。

これでみれば分かるように,ガリレイは『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』において,またスピノザは書簡十二において,ある種のものが無限infinitumでもあり有限finitumでもあるという点では一致しているものの,連続体の部分が可能性として無限であるといういい方は,スピノザによっては肯定され得ないことになるだろうと僕は考えます。ガリレイGalileo Galileiがそれを意識してそのようにいっているのかどうかは分からないものの,少なくともサルヴィヤチSalvyachiの解答は,可能的な力と現実的な力を両方とも力として認めない限り,成立しないように思われるからです。ですから,仮にガリレイがそのことを念頭に置いているのではなかったとしても,哲学的な意味においてサルヴィヤチの発言の意図を類推するのであれば,そこには一致があると同時に相違もあるとみておくのが妥当であると僕は考えます。
ではサルヴィヤチの発言をどのようにスピノザが修正するのかといえば,ふたつの道があり得そうです。ひとつは可能性として無限といっている点に関して,それは実際には可能性として無限であるのではなく,現実的に有限であるといわれるのと同じ意味において現実的に無限であるとする道です。もうひとつは,可能性として無限といわれているのは,無限ではないとする道です。
スタートは取り合いになりましたが,松浦が誘導の後ろに入って前受け。3番手に郡司,5番手に新田,8番手に脇本で周回。残り2周まで動きがなく,打鐘前のバックから脇本が発進。松浦が外に振りましたが,乗り越えて脇本の先行。松浦は一旦は番手を取りにいったものの,ホームで平原が確保。3番手に松浦,5番手に郡司,7番手に新田という一列棒状に。バックから郡司が発進。これに合わせて松浦も発進。しかしこのふたりは前には追いつけませんでした。松浦マークの清水は一旦は内を回り,最終コーナーで外へ。これを平原が牽制。これで脇本と平原の間が空き,郡司マークの和田がそこを突き,直線では突き抜けて優勝。逃げ粘った脇本が4分の3車身差で2着。和田が通ったコースをそのまま追い上げてきた佐藤が8分の1車輪差で3着。
優勝した千葉の和田健太郎選手はこれが初めてのビッグ制覇。グレードレースは2019年の京王閣記念以来の優勝。2020年は記念競輪も優勝していなかったのですが,ビッグの決勝には4回進出。これは郡司をマークする競走が多かったためで,ここも郡司マークからチャンスをものにしました。グランプリの優勝選手は番組の配慮を受けやすく,郡司のほかにも松井がいて,深谷も静岡に移籍しましたので,2021年も安定した成績を残せるのではないでしょうか。
スピノザは,哲学ないしは形而上学が,あらゆる学知scientiaを下支えすると考えています。第一部定理三一備考は,知性intellectusについて,それは現実的であって可能的ではないといっているのですが,このことは広く一般に妥当するのであって,この備考Scholiumは力potentiaというのは現実的なものにほかならず,潜在的なものではないということの一例なのです。たとえば人間の理性ratioというのは,人間が有するひとつの力であるとみることができます。しかしスピノザは,それを潜在的な力としては認めません。たとえば人間が理性的な振る舞いをしている限りにおいて,理性は確かに人間の現実的な力であるのですが,非理性的に,たとえば受動的な欲望cupiditasに流されている限りにおいてはその人間が理性という力を有しているとは認めません。いい換えれば,受動的な欲望に流されている人間に潜在的な理性という力がある,というような見方は否定するのです。

これでみれば分かるように,ガリレイは『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』において,またスピノザは書簡十二において,ある種のものが無限infinitumでもあり有限finitumでもあるという点では一致しているものの,連続体の部分が可能性として無限であるといういい方は,スピノザによっては肯定され得ないことになるだろうと僕は考えます。ガリレイGalileo Galileiがそれを意識してそのようにいっているのかどうかは分からないものの,少なくともサルヴィヤチSalvyachiの解答は,可能的な力と現実的な力を両方とも力として認めない限り,成立しないように思われるからです。ですから,仮にガリレイがそのことを念頭に置いているのではなかったとしても,哲学的な意味においてサルヴィヤチの発言の意図を類推するのであれば,そこには一致があると同時に相違もあるとみておくのが妥当であると僕は考えます。
ではサルヴィヤチの発言をどのようにスピノザが修正するのかといえば,ふたつの道があり得そうです。ひとつは可能性として無限といっている点に関して,それは実際には可能性として無限であるのではなく,現実的に有限であるといわれるのと同じ意味において現実的に無限であるとする道です。もうひとつは,可能性として無限といわれているのは,無限ではないとする道です。