スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

目的と欲望&実体としての1

2021-01-09 19:06:12 | 哲学
 僕がスピノザの哲学を説明するときに,動機という語句を用いない方がよいと考える理由のひとつに.動機という語句を使うと,それが目的としての動機という意味に解されてしまうおそれがあるという点があります。スピノザは第一部公理三から分かるように,一定の原因causaさえ与えられれば何らかの結果effectusが必然的にnecessario生じるとしています。しかしそこでいわれている原因は,一律に起成原因causa efficiensを意味するのであり,目的原因causa finalisという原因が存在するということをスピノザは認めません。したがって動機という語句を用いてスピノザの哲学を説明すると,スピノザが原因としては認めていない原因が,実はスピノザがそれを認めているというような誤った解釈を生じさせてしまう可能性があるのです。
                                   
 一方で,同じ事柄であったとしても,それを外部にある目的としてではなく,それをなす人間の内部にある欲望cupiditasとして説明するのであれば,その説明はスピノザの哲学の中で正しいものとなり得ます。欲望は基本感情affectus primariiのひとつであり,感情は第三部定義三にあるように,人間の身体humanum corpusの状態と人間の精神mens humanaの状態とを共に示す語句だからです。もちろんこのとき,人間のある種の行動の原因は,人間の身体のある状態を示す意味での欲望であると解さなければなりません。このことは,動機という語句が,精神の動機という意味に解されるおそれがあるために,スピノザの哲学を説明する際には動機という語を用いない方がよいと僕が考えるもうひとつの理由を説明したときにいった通りです。しかしその点さえ気を付ければ,欲望というのは確かにスピノザがいう意味での原因,人間のある行動の起成原因となり得るのです。
 ですから僕たちがスピノザの哲学を解する際に気を付けなければならないのは,欲望と目的とを混同しないようにするということです。他面からいえば,人間の欲望というのはそれ自体がある目的を構成するわけではないということです。たとえば外部にあるものを入手することに向う欲望は,そのものの入手を目的とする欲望であると解されるかもしれませんが,これは好ましいものではありません。欲望というのは第三部諸感情の定義一にあるように,人間の受動状態の現実的本性そのもののことをいうのであって,その現実的本性actualis essentiaがこの場合には外部のものを入手することへ人を向かわせるのだと解さなければならないのです。

 これは当たり前のことですが,このことを考えるためには重要なことなので,まず次のことをいっておきます。
 ガリレイGalileo Galileiは,1が唯一の無限数であるといっています。このときガリレイがいいたかったことは,1が無限infinitumであるということではありません。これは冒頭にいったように当然です。ここでは分かりやすく,数というのを自然数だけに限定しますが,自然数のうちで最小の数は1です。いい換えれば1よりも大なる数というのが無際限に存在することになります。あるものを抽出して,そのものより大なるものがあれば,それは有限finitumといわれます。これは第一部定義二から明白です。ですから自然数の中で1というのは有限でなければなりません。このことをガリレイが認めないということは考えられません。というか,これを認めないということはできません。したがって,1が唯一の無限数であるといっているからといって,それは数としての1そのものについて何かを言及しようとしているわけではないのです。
 ではガリレイが,1が唯一の無限数であるといったときに,何をいいたかったのかということが問題となりますが,これについては僕には正確なところは分かりません。ただ,スピノザの哲学に置き換えていえば,それは概ねこのようなことになるのであろうということは推測できます。
 スピノザは実体substantiaとしての量は無限であり,分割不可能であるといっています。このときその量は1であると仮定します。もし数を自然数に限定することができるのであれば,1はそれ以上は分割することはできないという意味においてこの条件を満たしますが,数を自然数だけに限定することは本来はできませんし,そもそも1より大なる自然数があるという条件は同様ですから,数としての1が無限であるという条件を満たすことができないという点では同じです。
 しかし,すでにこの考察の中でいったように,実体としての量というのは量ではあっても数ではないのです。ですから実体の量が1であるという言明を仮にしたとすれば,それは数としての1について何かをいおうとしているのではなく,実体としての1についての命題だと解さなければなりません、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする