スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヴィキュニア&欺瞞の兆し

2021-01-28 19:13:21 | 血統
 昨年のNARグランプリで2歳最優秀牝馬に選出されたソロユニットの輸入基礎繁殖牝馬は1954年にイギリスで産まれたヴィキュニアという馬です。ファミリーナンバー16-b
                                        
 イギリスで3頭の産駒を産んでからの輸入。日本では3頭の牝馬を産んでいますが,現在まで続いているのは日本で最初に産んだ産駒の子孫です。
 初めての重賞勝ち馬はヴィキュニアの曾孫にあたるシンピローという馬で,1980年に函館3歳ステークスを勝ちました。これは僕の競馬キャリアが始まる前のことです。
 シンピローの6つ下の半妹がシンウインド。1988年のスワンステークスと1990年の京王杯スプリングカップを勝ち,この馬が僕の競馬キャリアの中ではヴィキュニア一族で最初の重賞勝ち馬になりました。
 シンウインドは繁殖牝馬となり,8頭の産駒が輩出しました。その最後の産駒がサマーウインド。2010年にクラスターカップ,東京盃,JBCスプリントと3連勝し,この一族から最初の大レース勝ち馬となりました。現時点では大レースの勝ち馬はこの1頭です。
 シンピローとシンウインドの母の3つ下の半妹にあたる馬が,ソロユニットの4代母にあたります。昨年のエーデルワイス賞を勝ったこの馬が,こちらの子孫からは唯一の重賞勝ち馬。ただこの後の活躍馬は,こちらの分枝から出てくる可能性が高いように思われます。

 第一答弁から,デカルトRené Descartesの立場がカテルスJohannes Caterusの立場よりはスピノザの立場に近いということは分かります。ただこの答弁の中に,デカルトの詭弁そのものあるいはその兆しが含まれているのは事実です。
 まずデカルトは,汲み尽くすことができないほどの力potentiaがそれ自身の中に有するものが存在するということを承認するといっていて,この形容を自己原因causa suiと結び付けています。ですがこれは結び付けているだけで,明言しているというわけではありません。記述そのものは,それは自己原因であるとされているのではなく,自己原因であるほどに,となっているからです。つまりこの文章は,汲み尽くすことができないほどの力をそれ自身のうちに有するものは自己原因であるといっているようにみえますが,そのように断定しているわけではないという弁明も可能になるような記述方法をデカルトは採用しているのです。少なくともこの点に関して,デカルトは自己原因を汲み尽くすことができない力をそれ自身のうちに有するものであるということを肯定しているという言質をとられないように気を遣っていたといえるでしょう。
 もうひとつ,デカルトはこの文脈を神Deusと関連させ,神が自己原因であるといっているように解釈することはできるのですが,この部分でも明言することによって言質をとられないように気を遣っています。デカルトは神は積極的に自己自身によって存在すると思惟することが許される,いい換えれば神が自己由来的であるということを積極的に解してよいといっているのですが,それは神が自己自身に対して,起成原因causa efficiensが結果effectusに対するのと同一の関係にあるとは断言せず,ある意味で同一の関係にあるといういい方をしているからです。要するに,あるものがそれ自身に対して,起成原因が結果に対するのと同一の関係に立つことが自己原因であるとすれば,神は自己原因であるといういい方をしているわけではなく,神はある意味で自己原因であるといういい方を選択しているのです。
 とはいえいかにそこに欺瞞的なもの,あるいは欺瞞的な兆しが含まれているとはいえ,カテルスと比較すればデカルトがスピノザに近いことははっきりしています。
コメント
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