スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&因果性の原理

2021-01-26 19:01:30 | 将棋
 23日と24日に高槻市で指された第70期王将戦七番勝負第二局。
 永瀬拓矢王座の先手で相掛かり。早い段階から戦いになり,互角といっていい難解な局面のまま終盤戦へ。最後は後手の渡辺明王将が正しく受ければ勝ちという局面に進みましたが,そこで受け間違えたために先手が勝ちの局面に。しかし今度は先手が間違えたために後手が即詰みに討ち取って勝つという一局でした。
 最後の分岐のところだけ簡単に解説しておきます。もしも先手が109手目に☗7三歩成と指すと,実戦には出現しなかった第1図の局面になります。
                                        
 これは王手なので☖6四王と逃げる一手。そこで☗4三角成と詰めろを掛けます。
 詰めろを凌ぎつつ馬を抜く順があればいいのですが,それがありません。ですから後手が先手玉を詰まさなければ勝てません。
 詰ますための手順は☖6八金☗同銀引☖同歩成☗同玉☖8八飛成です。
                                        
 第2図で☗7八金と受けると☖7七銀と打ちます。この手に☗5八玉は☖7八龍と金を取って,また☗5九玉は☖4七桂☗5八玉☖7八龍と金を取って以下は簡単に詰み。☗6七玉は☖7八銀不成☗同銀☖7五桂☗6八玉のときに☖7七金と取った金を打ち,☗5九玉☖6七桂不成以下の詰みです。つまり☗7八金はその金を取られてしまうので詰みなのです。ですが第2図で☗7八歩と打てば,金を渡さずにすむので先手玉は詰みません。よって第2図は先手の勝ちです。
 第1図の☗7三歩成は7四の歩が成ったもの。この手の意味は単なる王手ではなく,第2図で☗7八歩を用意する受けの一手でもあったのです。
 渡辺王将が連勝。第三局は30日と31日に指される予定です。

 その起成原因causa efficiensを問うことが許されないものは何も存在しない,という規準を,因果性の原理といいます。すなわちデカルトRené Descartesは,起成原因という概念notioは,因果性の原理に基づいて解釈されるべきであり,原因と結果effectusの間にある時間tempusによっては制約されないと考えていたわけです。そして因果性の原理というのは普遍的なものです。したがって,あらゆる起成原因の概念がこの普遍的な原理に則して解釈されなければならないのですから,それは神Deusにも適用されなければなりません。つまり神に対してその起成原因を問うことは許される,いい換えれば可能であるとデカルトは考えていたのです。カテルスJohannes Caterusは単に,自己由来性について,それは積極的に解されてはならず,消極的に,つまり単に原因を有さないというように解されなければならないと主張していたのですが,デカルトの答弁は,それに対してかなり踏み込んだものとなっているといえるかもしれません。
 もっとも,カテルスの真意というのも,デカルトの答弁に適合するものであったといういい方はできるでしょう。すなわち,もしも自己由来的であることを積極的な意味で解釈するなら,それは神に対して適用されることになってしまい,そのことが不適切であるというのがカテルスの本音であったように思われるからです。ここにはある種の宗教的な解釈,あるいは神学的観点が含まれているのであって,カテルスが思想家であるとしてではなく,司祭として紹介されていることも踏まえれば,デカルトの答弁は踏み込んだものであるようにみえて,実際には適切なものであったといえると思います。
 この第一答弁の中でデカルトはさらに踏み込んだことをいっています。デカルトは,存在しまたその存在が維持されるために,いかなるものの助けも必要としないものが存在するということを承認するといっています。これはもちろん神を念頭に置いています。そしてこのような存在者すなわち神について,ある意味で自己原因causa suiであるほどに汲み尽くすことができない力potentiaがその中にあるようなもの,という形容をしているのです。これはかなり重要なテクストだといえます。自己原因という語句が使われているからです。
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