スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

わかれうた&正当性

2008-02-18 19:09:22 | 歌・小説
 このところ,よく眠れない夜が多くなってきています。
 『永久欠番』の記事をエントリーしたときに,伯父と友人を相次いで亡くしたことに触れました。あの記事は僕の中ではちょっとしたレクイエムのつもりでした。僕が眠れなくなったのは今月の初めからで,もしかしたらふたつの別れと関係しているのかもしれません。
        
 変なことをいうようですが,僕は死と失恋というのは,どことなく似ているような気がするのです。今日は中島みゆきの「わかれうた」でそれについて話してみます。

   別れの気分に 味を占めて
   あなたは 私の戸を叩いた
   私は 別れを 忘れたくて
   あなたの眼を見ずに 戸を開けた


 このように歌われている以上,間違いなくこの歌は失恋のことを歌っています。しかし次の部分はどうでしょう。

   恋の終わりは いつもいつも
   立ち去る者だけが 美しい
   残されて 戸惑う者たちは
   追いかけて焦がれて 泣き狂う


 もちろんこの部分も失恋を対象として歌われています。しかし残される者の立場はどうでしょう。追いかけて焦がれて泣き狂うのは,失恋の場合も死の場合も,似たようなものではないでしょうか。そして死にゆく相手のことを,美しいと感じたりはしないでしょうか。
 死も失恋も同じ別れです。そしてそれは無際限な別れであるといえるでしょう。そういう意味だけでも,このふたつは似たところがあると思います。しかし何より決定的なのは,これらふたつの別れは,残される者にとって,不条理なものと感じられる点にあるでしょう。そう,死も失恋も,単なる無際限の別れであると同時に,不条理な別れだと思うのです。

   眠れない私は つれづれに
   わかれうた 今夜も口ずさむ


 最近は,眠れない夜が多くなっているのです。

 明日から王将戦七番勝負の第四局です。羽生善治王将が勝てば防衛に王手,久保利明八段が勝てば2勝2敗のタイですから,これは大きな一番といえそうです。

 十全な観念と真の観念の相違というのは,ただその観念ideaが内的特徴denominatio intrinsecaからみられるのか,それとも外的特徴denominatio extrinsecaからみられるのかという点にのみあるわけです。したがって,単に観念を形相的にformaliterみるとすれば,十全な観念idea adaequataと真の観念idea veraとの間には,実は一切の差異がないということになります。よって第二部定義四のように,十全な観念を定義する場合に,あるいは別のいい方をすれば,十全な観念の本性を示そうとする場合に,真の観念に依拠してそれを説明することが果たして適切であるのかという,いわば第二部定義四の定義Definitioとしての正当性に関していくらかの疑問が生じてきます。
 これを考えるときに重要なのは,真の観念は『エチカ』の中ではある定義として定義されているのではなくて,第一部公理六において,公理Axiomaとして示されているという点にあると僕は思っています。というのは,一般にある事柄が公理として示されるということは,そのことはそれ自体で僕たちに知られ得るということを意味しているからです。そして確かに,真の観念がその対象ideatumと一致するということ,あるいは真の観念であるからにはそれが観念されたものと一致していなければならないということは,それ自体で僕たちが知り得ることであるのではないかと思います。
 よってある観念の外的特徴については,僕たちはそれをそれ自体で知ることになります。そこでそうした外的特徴によって知られるある観念について,それを内的特徴からみた場合というように十全な観念を定義することには,定義としての正当性が十分にあるのではないかと思います。これは,それ自体で知られ得るようなあるものについて,その本性essentiaを一般的な仕方で説明しているといえるからです。
コメント (2)
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