三浦九段にとって不利な状況であると当時の僕に思えたのは,二点だけでした。しかしその二点を考慮に入れても,当時の僕はそれらは,三浦九段が非合理的なことをしないとか,そもそも三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受ける蓋然性が低いということを覆す要因にはならないと考えました。ここからはその理由を詳しく説明していくことにします。
このうち,不自然な離席に対する合理的な説明がなされていないということについては,たとえそれがなされていなかったとしても,不自然に離席しているからといって,それがすぐにコンピュータによる指し手の援助に繋がるかということが不分明に思えました。つまりこれは,仮に三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているとして,そのための時間が三浦九段にはあったということだけを論証しているのであって,三浦九段が指し手の援助を受けているということそのものについては何も論証していません。さらにいうと,この種の不自然な離席を三浦九段だけがしていてほかの棋士はだれひとりとしてしていないということも示していません。もしそれが三浦九段に特有の行動であったとすれば,そのことで三浦九段が何らかの疑義をかけられたとしてもおかしくないということは僕も認めていましたが,事情がそうであったということは何もいわれていませんでしたし,僕は一ファンであって棋士の行動というのを逐一知っていたというわけではありませんが,それが三浦九段に特有の行動であるというようにも思えませんでした。そもそも当時は,対局場から外出することが許容されていたのですから,僕のように判断するのは自然だったと思います。
仮に特有の行動であったとしても,それは何らかの疑義をかける理由にはなるというだけであって,それが指し手の援助を受けているということを証明しているわけではありません。なので三浦九段が不自然な離席に対して合理的な説明をしていないということは,当時の僕は事実としてそうであるし,三浦九段にとって不利な状況であると認識していましたが,だからといってそれは疑惑を正当化するような根拠にはなり得ませんでした。
結局のところ,どう打つかという点で似通ってくるのは,デジタルであるかオカルトであるかという点より,雀風がどのようなものであるのかという点の方が大きく影響します。とりわけ,何の情報もないような場面,つまりゲームが始まったばかりの東一局などは,オカルト的な要素を発揮する要因がほとんど与えられていないわけですから,雀風が一致するオカルトプレイヤーとデジタルプレイヤーの打ち方の方が,雀風が一致しないオカルトプレイヤー同士やデジタルプレイヤー同士の打ち方よりも,似通ってくることになります。
さらに例として示したこの南四局のように,各々のプレイヤーのするべきことが決定しているような局面では,オカルトであるかデジタルであるかということはもちろん,雀風がどうあるのかということと関係なく,打ち方はほぼ一致します。最も分かりやすい例でいえば,この局面でフェニックスの立場で打つのなら,だれであれとりあえず2000点を確保した上で,あとはとにかくスピードを重視して打つことになるからです。これはそのプレイヤーがデジタルであるかオカルトであるかということとは関係ありませんし,たとえそのプレイヤーが,スピードよりも得点を重視するタイプであったとしても,2000点のテンパイをスルーして8000点のテンパイを目指すなどということはあり得ないからです。
僕がこの部分の考察の始めの方に,オカルトとデジタルという区分は確かに存在し,かつ存在すると認識されているけれども,実際にはそう思われているほどの相違があるわけではないという主旨のことをいったのは,こうした事情に左右されてはならないと考えるからです。いい換えれば,近藤が直感とオカルトは異なるというときのオカルトは,デジタルと反対の意味でのオカルトではあるのですが,だからといってデジタルはオカルトとは反対の打ち方をするという意味ではないのです。それが実際に意味しているところが何であるのかということは,後に示します。
もうひとつ気を付けておいてほしいのは,オカルト派のプレイヤーはデジタルな打ち方ができないプレイヤーであるというわけではないということです。
このうち,不自然な離席に対する合理的な説明がなされていないということについては,たとえそれがなされていなかったとしても,不自然に離席しているからといって,それがすぐにコンピュータによる指し手の援助に繋がるかということが不分明に思えました。つまりこれは,仮に三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているとして,そのための時間が三浦九段にはあったということだけを論証しているのであって,三浦九段が指し手の援助を受けているということそのものについては何も論証していません。さらにいうと,この種の不自然な離席を三浦九段だけがしていてほかの棋士はだれひとりとしてしていないということも示していません。もしそれが三浦九段に特有の行動であったとすれば,そのことで三浦九段が何らかの疑義をかけられたとしてもおかしくないということは僕も認めていましたが,事情がそうであったということは何もいわれていませんでしたし,僕は一ファンであって棋士の行動というのを逐一知っていたというわけではありませんが,それが三浦九段に特有の行動であるというようにも思えませんでした。そもそも当時は,対局場から外出することが許容されていたのですから,僕のように判断するのは自然だったと思います。
仮に特有の行動であったとしても,それは何らかの疑義をかける理由にはなるというだけであって,それが指し手の援助を受けているということを証明しているわけではありません。なので三浦九段が不自然な離席に対して合理的な説明をしていないということは,当時の僕は事実としてそうであるし,三浦九段にとって不利な状況であると認識していましたが,だからといってそれは疑惑を正当化するような根拠にはなり得ませんでした。
結局のところ,どう打つかという点で似通ってくるのは,デジタルであるかオカルトであるかという点より,雀風がどのようなものであるのかという点の方が大きく影響します。とりわけ,何の情報もないような場面,つまりゲームが始まったばかりの東一局などは,オカルト的な要素を発揮する要因がほとんど与えられていないわけですから,雀風が一致するオカルトプレイヤーとデジタルプレイヤーの打ち方の方が,雀風が一致しないオカルトプレイヤー同士やデジタルプレイヤー同士の打ち方よりも,似通ってくることになります。
さらに例として示したこの南四局のように,各々のプレイヤーのするべきことが決定しているような局面では,オカルトであるかデジタルであるかということはもちろん,雀風がどうあるのかということと関係なく,打ち方はほぼ一致します。最も分かりやすい例でいえば,この局面でフェニックスの立場で打つのなら,だれであれとりあえず2000点を確保した上で,あとはとにかくスピードを重視して打つことになるからです。これはそのプレイヤーがデジタルであるかオカルトであるかということとは関係ありませんし,たとえそのプレイヤーが,スピードよりも得点を重視するタイプであったとしても,2000点のテンパイをスルーして8000点のテンパイを目指すなどということはあり得ないからです。
僕がこの部分の考察の始めの方に,オカルトとデジタルという区分は確かに存在し,かつ存在すると認識されているけれども,実際にはそう思われているほどの相違があるわけではないという主旨のことをいったのは,こうした事情に左右されてはならないと考えるからです。いい換えれば,近藤が直感とオカルトは異なるというときのオカルトは,デジタルと反対の意味でのオカルトではあるのですが,だからといってデジタルはオカルトとは反対の打ち方をするという意味ではないのです。それが実際に意味しているところが何であるのかということは,後に示します。
もうひとつ気を付けておいてほしいのは,オカルト派のプレイヤーはデジタルな打ち方ができないプレイヤーであるというわけではないということです。