第四部定理五七では,高慢な人間の特質proprietasとして,阿諛追従の徒adulatorを好むことと,寛仁generositasの人を憎むことが示されています。このとき,阿諛追従の徒というのが何を示すのかということは,実は『エチカ』でははっきりとした定義Definitioが与えられているわけではありません。そこでこれをどう考えるべきなのか,僕の見解opinioを示しておくことにします。

スピノザの定義に倣っていうなら,第三部諸感情の定義二一の買い被りexistimatioという感情affectusを,高慢superbiaである当の人間に対して抱く人は阿諛追従の徒だといえます。ただしこの場合には,次の点に留意しておかなければならないでしょう。
買い被りとは,たとえばAに対する愛amorが原因causaとなってAに対して生じる感情です。しかし高慢な人間は別に愛されることを必要としないと考えることができるのです。したがって阿諛追従の徒とは,高慢である人間に対して愛を感じているかいないかに関わらず,高慢な人間からみて,自分を正当以上に評価してくれる人間のことだといっておいた方が正確だといえるでしょう。高慢な人間の特質について説明した例でいうなら,たとえば高慢であるある政治家をその能力以上に評価する別の政治家は,別にその高慢な政治家を愛しているとは限らず,単に有力な政治家に取り入ることによって,自身の政治的な力をより強大なものにしようという欲望cupiditasをその原因としているからかもしれません。しかしこの場合にも高慢な人物からはその人間は阿諛追従の徒のようにみえる,いい換えればその人間を阿諛追従の徒と表象するimaginariということは大いにあり得るわけで,高慢な人物はそういう人間が現実的に存在するということを好むでしょう。他面からいえばその人間は自身の高慢という喜びlaetitiaを増大させてくれる人間であると表象するでしょうから,第三部諸感情の定義六により,そういう人物のことを愛するようになるでしょう。
たぶんこれが高慢な人間は阿諛追従の徒を好むということの意味だと僕は考えます。したがって阿諛追従の徒とは,高慢な人間を正当以上に評価する人間であると定義できるというのが僕の見解です。
11月18日,水曜日。母がI歯科へ。差し歯に問題はないかの確認です。母は何も言ってはいなかったのですが,少しばかり削ったとのことでしたから,実際には何か不都合が生じていたのだろうと思います。僕はこの日は川崎。帰ったのは午後5時35分でした。
11月19日,木曜日。この日は午前中だけ本牧で,午後はオフでした。それでその時間に近くの家電量販店に行き,新しいパソコンを購入しました。パソコンというのは買うだけでは意味がなく,設定が必要になります。僕はそう多くの機能を使用するわけではなく,ネットとメールとワードが使えるようになれば最低限のことは大丈夫。それでもある程度の時間が必要とされますので,まとまった時間があるときでないとパソコンは買えないのです。さらにその日のうちに持ち帰って設定する必要がありますから,その場で入手することができる機種でないといけません。もっとも僕はWindowsであれば機種にはこだわりはありませんから,そのあたりはあまり問題とはならないです。運転ができませんから,持ち帰るというのは重労働なのですが,以前は本体と画面が分離していたものを持ち帰っていたわけで,一体型のパソコンならむしろ楽になったといえるくらいです。店員の説明もある程度は聞かなければならず,買って家に帰ることができたのは午後2時45分。設定などにもそれほどの時間は掛かりませんでしたから,この日のブログも問題なく投稿することができました。
11月21日,土曜日。妹の土曜出勤。恒例の施設のバザーです。例年のことですが母と一緒でした。
11月22日,日曜日。妹のピアノのレッスン。午後4時半から。午後5時半の予定が当日の電話で早まったものでした。
11月24日,火曜日。母がバザーの後片付けのために施設に行きました。これがこの年の最後のボランティアでした。
僕はこの日は午前中に長者町だったのですが,帰りのバスで以前から会うことがあった友人に出くわしました。その時間なので驚いたのですが,友人は買い物に出かけた帰りだったようです。友人の方もこの時間に会ったことにびっくりの様子でした。

スピノザの定義に倣っていうなら,第三部諸感情の定義二一の買い被りexistimatioという感情affectusを,高慢superbiaである当の人間に対して抱く人は阿諛追従の徒だといえます。ただしこの場合には,次の点に留意しておかなければならないでしょう。
買い被りとは,たとえばAに対する愛amorが原因causaとなってAに対して生じる感情です。しかし高慢な人間は別に愛されることを必要としないと考えることができるのです。したがって阿諛追従の徒とは,高慢である人間に対して愛を感じているかいないかに関わらず,高慢な人間からみて,自分を正当以上に評価してくれる人間のことだといっておいた方が正確だといえるでしょう。高慢な人間の特質について説明した例でいうなら,たとえば高慢であるある政治家をその能力以上に評価する別の政治家は,別にその高慢な政治家を愛しているとは限らず,単に有力な政治家に取り入ることによって,自身の政治的な力をより強大なものにしようという欲望cupiditasをその原因としているからかもしれません。しかしこの場合にも高慢な人物からはその人間は阿諛追従の徒のようにみえる,いい換えればその人間を阿諛追従の徒と表象するimaginariということは大いにあり得るわけで,高慢な人物はそういう人間が現実的に存在するということを好むでしょう。他面からいえばその人間は自身の高慢という喜びlaetitiaを増大させてくれる人間であると表象するでしょうから,第三部諸感情の定義六により,そういう人物のことを愛するようになるでしょう。
たぶんこれが高慢な人間は阿諛追従の徒を好むということの意味だと僕は考えます。したがって阿諛追従の徒とは,高慢な人間を正当以上に評価する人間であると定義できるというのが僕の見解です。
11月18日,水曜日。母がI歯科へ。差し歯に問題はないかの確認です。母は何も言ってはいなかったのですが,少しばかり削ったとのことでしたから,実際には何か不都合が生じていたのだろうと思います。僕はこの日は川崎。帰ったのは午後5時35分でした。
11月19日,木曜日。この日は午前中だけ本牧で,午後はオフでした。それでその時間に近くの家電量販店に行き,新しいパソコンを購入しました。パソコンというのは買うだけでは意味がなく,設定が必要になります。僕はそう多くの機能を使用するわけではなく,ネットとメールとワードが使えるようになれば最低限のことは大丈夫。それでもある程度の時間が必要とされますので,まとまった時間があるときでないとパソコンは買えないのです。さらにその日のうちに持ち帰って設定する必要がありますから,その場で入手することができる機種でないといけません。もっとも僕はWindowsであれば機種にはこだわりはありませんから,そのあたりはあまり問題とはならないです。運転ができませんから,持ち帰るというのは重労働なのですが,以前は本体と画面が分離していたものを持ち帰っていたわけで,一体型のパソコンならむしろ楽になったといえるくらいです。店員の説明もある程度は聞かなければならず,買って家に帰ることができたのは午後2時45分。設定などにもそれほどの時間は掛かりませんでしたから,この日のブログも問題なく投稿することができました。
11月21日,土曜日。妹の土曜出勤。恒例の施設のバザーです。例年のことですが母と一緒でした。
11月22日,日曜日。妹のピアノのレッスン。午後4時半から。午後5時半の予定が当日の電話で早まったものでした。
11月24日,火曜日。母がバザーの後片付けのために施設に行きました。これがこの年の最後のボランティアでした。
僕はこの日は午前中に長者町だったのですが,帰りのバスで以前から会うことがあった友人に出くわしました。その時間なので驚いたのですが,友人は買い物に出かけた帰りだったようです。友人の方もこの時間に会ったことにびっくりの様子でした。