今更ですが、昨日ようやく「明鏡止水」の後編を鑑賞しました。
実は拙宅には録画機能がなく、実家の弟に頼んでいたのですが、ようやく焼いてもらったDVDを取りに行って見ることができた次第です。
前編より面白かったという声を聞いただけに、興味深く見ることができました。
それにしても廣木師範、3回も刃物で襲撃されたことあるのね。たぶん、今よりだいぶ若かった時のことでしょうね(笑)。
それを聞いて、廣木師範の師匠でもある極真空手の芦原英幸師範のエピソードを思い出してしまいました。
婚約者の前でヤクザに囲まれた芦原英幸が、相手に刃物を与えて「かかってこい」と言って、全員叩きのめしてしまう、あの空手バカ一代の一幕です。
梶原一騎先生の原作は、ほとんど創作ネタが多いので、これもホントか嘘かわかりませんが、これはたぶん、実話なんでしょうね。
廣木師範は正義感の強い人ですから、おそらくは現場に巻き込まれてしまったのでしょう。
そんな体験から、人を誰も傷つけない武道である「護道」が完成したというのも、実に驚くべきことであり、素晴らしいことですね。
先にブログ記事で書いたことと重なるのですが、なぜ本来は人を殺す技術だった武道が、人を活かす技術になり得たのか?
武道の稽古というのは痛く苦しいものです。
今でこそ、昔に比べれば理不尽な稽古は少なくなりましたが、それでも技を習得し、強くなるためには、痛みやケガはつきものです。
元々は相手を殺傷し、制圧することが目的だった武道ですが、その稽古の過程においては、どうしても殺される側、傷つけられる側、制圧される側にならないといけません。
型の稽古において、常に取りと受け…つまり攻撃する方と、される方の両方があるのは、そういうことです
また試合というのも、柔道の開祖・嘉納治五郎先生が仰るように、元は「死合い」と書いて、死に対するシミュレーションでもありました。
武道というのは、そのように制圧する方とされる方、そして死に対するシミュレーションの経験が不可避であるからこそ、そうならないための方法…つまりは「人を活かす道」になったのでしょう。
ここで廣木師範をはじめ、出演していた武道の達人、宗家たちが「最強は逃げる」ことだと口を揃えて言っていたこと印象的でした。
生兵法はケガの元、なんて言葉がありますからね。
ただ、番組の中でも「ここまでなら逃げられる間合い」と「逃げられない間合い」があって、ましてや家族がいた場合などは、どうしても戦わないといけない状況があることはたしかです。
▼年末、自分のマンションのゴミ出しに注意を呼びかけたイラスト。護道の構えです。
女性の護身術でも、声を上げて助けを求めるのが最強。
でも、そんな状況で、普通の女性は声が出なかったりしますから、声が出せるようになるだけでも、武道の鍛錬が役に立つでしょうね。
かの徳川家の家訓で、一番大切な鍛錬は「早駆け」と「水練」だそうです。
これは戦において「逃げる」ということが、何よりも大切だったから生まれたことだそうです。
人生には、どうしても戦わざるを得ない状況があるだけに、それ以外の無用な戦いはすべきでないということでしょうね。
もちろん「逃げる」ことが卑怯に当たる行為…家族や恋人を守らないといけない状況で逃げるのは論外ですよ(笑)。