漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

ナイトランド/ 2

2009年05月23日 | W.H.ホジスンと異界としての海
(「1.麗しきミルダス」続き)

 それからというもの、私は毎夕、自分の地所からジャールズ卿の地所へ続く静かな田舎道を散歩するようになった。そしていつも生垣の抜け道から中へ入り込んだ。すると大抵は森の辺りを歩いているミルダス嬢を眼にすることが出来た。彼女はいつでも大きなボア・ハウンドを従えていたが、それは私が身の安全のためにぜひそうして欲しいと頼んだためだ。彼女は私の喜ぶようにしたいと望んでいるように思えた。だが実際には、様々な場面で全理解し難い態度を取る事がよくあった。それはまるで、私を困らせることで、忍耐力はどの程度あるのか、どのくらい怒らせることが出来るのか、推し量ろうとしているかのようでさえあった。
 鮮明に覚えていることがある。ある夜、生垣の抜け道へ向かう道で、私はジャールズ卿の森から二人の村娘がやってくるのを目にしたのだ。しかし私は彼女たちに興味はなかったから、いつものようにそのまま抜け道をくぐり抜け、敷地の中へ入り込んだ。ところが傍らを通り過ぎる時、野暮な村娘にしてはいささか優雅すぎる会釈を交わしてきた。それで私ははっと思い当たって、二人を追いかけ、もっと間近から見てみた。すると背の高い方の娘は確かにミルダス嬢であるように思えた。しかし確証は持てなかった。というのも、私が彼女の名を呼んだ時、その娘はただ作り笑いをして、また会釈を返してきただけだったからだ。それはいかにも怪しい振る舞いだった。それで二人の後に付いて行った私は(ミルダス嬢のことについて、いくらかは理解し始めていたつもりだっただけに)さらに驚かされることとなった。
 二人はまるで、私が暴漢か何かかもしれないから夜道で一人きりになったりしないよう十分に用心しなければといった風で、落ち着き払って見せつつも、足早に歩いていった。そしてついには村の広場にまで辿り着いたが、そこでは盛大なダンスパーティーが宴もたけなわとなっていて、松明が焚かれ、巡回のバイオリン弾きは調べを奏で、盛大にビールも振舞われていた。
 二人は踊りの輪に加わり、心ゆくまで踊った。しかし二人は互い同士を相手とするだけで他の人とは踊ろうとはせず、しかも用心深く松明の側を避けていた。こうした行動から、私は二人がミルダス嬢と彼女の待女であると確信した。それでこちらの方へ踊りながらやって来た機会を捉え、二人の前に歩み出て、一緒に踊って欲しいと真っ向から申し込んだ。ところが背の高い娘の方は作り笑いをして、先約がありますの、と答えた。そしてすぐに図体ばかり大きい粗野な若者に手を差し伸べ、植え込みを回って行ってしまった。しかし彼女は気紛れな振る舞いをした報いを受けたらしく、全神経を集中して、男の無粋なステップから自分の足を守らなければならない羽目に陥ってしまった。だから踊りが終わった時には心の底からほっとしたようだった。
 もうこの時点で、いくら村娘のドレスと靴で変装し、薄暗い場所で品のないステップを踏んで見せようとも、娘がミルダス嬢であることは明らかであった。私は娘の方へ歩いて行き、声をかけて、その名を囁いた。そしてただ一言、馬鹿なことはもう終いにして一緒に家に帰りましよう、と言った。だが彼女は私に背を向けて歩いてゆき、また若者の所に戻った。そしてやっとの思いでもう一曲を踊りきると、その男に、途中まで送ってくれないかしら、と頼んだ。男は喜んでそれに応じた。
 すると男の仲間である別の若者が現れ、中に加わってきた。そして一行が松明の明かりの届かぬ所にまで離れるや否や、粗暴な男たちは躊躇うこともなくさっと彼女たちの腰にそれぞれ手を回してきた。そうなるとミルダス嬢はもはや我慢が出来なくなり、恐怖心と嫌悪感のあまり叫び声を上げ、抱きついてきた男を払いのけた。それが余りに強い力だったので、男は一瞬彼女から離れ、酷い悪態をついた。だがすぐにまた彼女の所へ戻り、さっと抱え込んだかと思うと、キスをした。彼女は嫌悪感を露わにして、男の顔を狂ったように両手で叩きつけた。私は彼らに近づいたが、手は出さずにいた。するとその直後、彼女は私の名前を大声で呼んだ。それで私は男を掴まえて一発食らわしたが、それ以上叩きのめそうとは思わなかった。ただし男が思い知るようにと、そのまま彼を道の脇へ放り投げてやった。するともう一人の男は、私の名前を耳にすると、怯えている待女から離れて尻尾を巻いて逃げていった。この一帯には私の勇名が轟いていたのだ。
 私はミルダス嬢の肩を両手で掴み、怒りにまかせて強く揺さぶった。それから私は待女を先に行かせた。待女は女主人から留まるようにという命令は受けなかったから、少し先を歩いていった。そうして、ようやく垣根の抜け道にまで辿り着いた。ミルダス嬢は押し黙っていたが、それはまるで私の側にいることが嬉しいと密かに感じているかのようでもあり、寄り添って歩いていた。抜け道を潜り抜け、私は彼女を玄関まで送り届けた。そして彼女が鍵を持っている脇戸の所でおやすみを言った。彼女も落ち着いた静かな声で、おやすみなさいと言った。それはまるで、今夜はまだしばらく私と一緒に居たいと言っているかのようであった。
 けれども翌日に会った時には、やはり彼女は酷く人を困らせる態度を取り続けた。仕方なく私は彼女を放っておいたが、黄昏時が迫ってきた頃になって、どうか我侭な振る舞いをするのはやめてくれないだろうか、と言った。私は語らいの時を持ちたいと心底願っているのに、いつもつれない素振りだったからだ。すると彼女は急にしおらしくなった。そして明るく思いやりに満ちた態度になった。それから彼女は、私が寛ぎたいのだと察し、ハープを持ち出してきて、日が暮れ行く中、幼い日々の懐かしいメロディを奏でてくれた。それが彼女に対する愛をさらにかけがえのないものにしたのだった。その夜、彼女は三匹のボア・ハウンドと一緒に垣根の抜け道から私を見送り、家路を辿っていった。だが私は彼女の後をそっと付いていって、無事に玄関に辿り着くまで見届けた。その夜は彼女を一人きりにしたくはなかったのだ。彼女はきっと私が遠く離れた田舎道を歩いていると思っていただろう。彼女は犬たちと歩いていたが、その中の数匹がこちらの方に向かって走ってきて、親しげに私に鼻を擦り付けてきた。だが私は犬たちをさっさと追い払った。だから彼女は何一つ気付くこともなかった。そして家路を辿りながら、小さな声でラヴ・ソングを唄っていた。だが彼女が私を愛しているのかどうかは、何とも言いかねた。好感を持ってくれてはいるにしても。
 次の夕方、私は少し早い時間に抜け道へ行ってみた。ところが何ということだろう、誰かが抜け道に立って、ミルダス嬢と話をしているではないか!それは身だしなみの良い男で、法曹界に属する人間のような雰囲気を纏っていた。男は私が近づいて行って抜け道を通ろうとしても、道を譲ろうとはしなかった。そればかりか、じっと不動だにせずに、私を蔑んだような眼差しで見詰めるのだった。それで私は手を伸ばし、彼を押しのけて道を空けさせた。
 ところが、意外なことにミルダス嬢は私に向かって非難の言葉を投げ掛けてきたから、私は驚き、酷く傷ついた。それでとっさに、彼女は私を愛しているという訳ではないのだと確信した。そうでなければ、自分よりも小柄な人間に対してそれは余りに粗暴で卑怯じゃありませんかなどと、他人の前で私を恥じ入らせるようなことを言う筈はなかった。その時の私の心情は、分かって頂けるだろう。
 しかし、ミルダス嬢の言う事にも一理あるということは認めざるを得なかった。確かに、男として紳士らしい振る舞いをすべきだったのかもしれない。さらに言えば、ミルダス嬢にしたところで、彼女の真の友人であり従兄でもある私を、本気で貶めようとは思ってはいないに違いない。だから私は弁明することはせず、ただミルダス嬢に向かって深々と頭を下げた。それから男の方にも少し頭を下げ、謝罪した。実際のところ、彼は背も低かったし、頑強でもなかった。私は彼に対して、紳士として礼儀正しく振る舞うべきだったのだろう。少なくとも、初対面の時には。
 そう考えた私は、自分の為すべきことは一つしかないと察して踵を返し、幸せそうな二人を残して歩み去った。
 それから自邸に戻るまでに、恐らく二十マイル以上は歩き回ったと思う。夜通し、いや夜が明けても、心が落ち着くということがなかったのは、ミルダス嬢を愛する気持ちが、制御できないほどに膨らんでしまっていたからだ。だから突然訪れた深い喪失感に、身も心も、そして魂までも、打ちのめされてしまっていた。
 私は散策の路を変え、獏とした一週間が過ぎた。だがその週の終りになって、どうしてもミルダス嬢の顔を一目見たいという気持ちに逆らえなくなり、通い慣れた道を散策してみた。だがそこで目の当たりにしたのは、激しい胸の痛みと嫉妬心に苛まれる光景だった。私が抜け道から伺い見たのは、ちょうど深い森の淵から離れ、こちらに歩いて来るミルダス嬢の姿だった。そしてその傍らには、あの身なりのよい法曹界の男が彼女の腰に腕を回して共に歩んでおり、それで私は二人が恋人同士なのを知った。ミルダス嬢には兄弟はおろか、若い男の親類さえいなかったのだから。
 だがミルダス嬢は路上の私の姿を認めると、一瞬戸惑ったようだった。彼女は恋人の腕を振り解き、少し顔色を変えて、会釈をした。私は深々と頭を下げた――打ちひしがれた気持ちで。今や私の心は死んだも同然だった。歩み去ろうとした時、私は男が再び彼女に歩み寄り、また彼女の腰に腕を回すのを見た。きっと二人は、悲しみに打ちのめされてよろよろと立ち去ってゆく私の後姿を見詰めているのだろう。だが私には、彼らを振り返って見る余裕などなかった。

"The Night Land"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by shigeyuki