漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

琴が浜

2007年09月10日 | 三浦半島・湘南逍遥

 昨日は真鶴へ。
 番場浦は波が高く、しかもニゴニゴで、琴が浜へ移動。
 琴が浜は穏やか。9月になって、この浜は良い季節になった。
 もともととても豊かな場所なのだが、真夏には海の表層が酷く濁ることが多い。どうしてかは分からないけれど、海水浴客の多さと、コンクリートの護岸のせいじゃないかと思う。二、三メートルも潜ると随分と澄んでいたりするのだけれど、夏にはなかなか近寄りがたい。
 だが、秋口になるとその濁りも随分と取れるようで、良いコンディションになるみたいだ。魚影は、とても濃く、死滅回遊魚も沢山いる。

 写真は、なんだかんだで殆ど撮らなかったため、即席のコラージュで誤魔化す。

 僕は真鶴に来ると、必ずメザシを買って帰る。真鶴のメザシは、本当に美味しいと僕は思う。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 4・転落・7

2007年09月09日 | 月の雪原
 ……そうね、そうするわ。
 その声がすぐ耳元で聞こえたような気がして、ツァーヴェははっとして辺りを見回した。だが誰の姿も見えない。見えるのは、見慣れた森の光景だけ。そうだ僕はたった一人でアトレウスの車の運転席に座り絵本を開いていたのだ、とツァーヴェは思った。それほど記憶の中に没入していたのだった。
 辺りはしんとしていた。世界が一斉に息を潜めたかのように静かだった。ツァーヴェは膝上の絵本の表紙をじっと眺めた。表紙には広い平原の中に建つ家とそこへ向かう男の後ろ姿があったが、それらは小さく描かれており、画面の大半を占めているのは渦巻くようなタッチで青く塗られた夜空で、そこには遊ぶように舞っている緑色に輝く北極光が輝いていた。本文中にもあった絵だが、表紙にあるとまた違った印象に見えた。
 ツァーヴェは思った。この男は少年で、空の北極光は彼の父親や、それからこの世に未練を残している人々なのだろう。でも、この話のようなことが本当にあるんだろうか。本当にあるんだとしたら、もしかしたら僕のお父さんも空に上ってオーロラになったのかもしれないな。だって、お父さんはいまだに見つかっていないのだ。見つからないのは、今は空にいるからかもしれないじゃないか。だとしたら、いつか僕はお父さんに会いに行けるのかもしれない。
 ツァーヴェはもう一つキャンディーを口に頬張った。ねっとりとした強い甘さが口の中に広がった。キャンディーを頬袋に落とし込むと、その甘さに頬が少し痛んだ。
 もう少ししたら家に帰ろう、とツァーヴェは思った。もう少しここで遊んで、あと二十分くらいしてから帰ろう。
 ツァーヴェは絵本を助手席に置いた。そしてハンドルに手をかけて、自分がタイガの森の中を切り裂くように走って行く姿をまた思い描いた。
 タイガの中を貫く道を外れ、密林の中に深く入り込み、ツァーヴェの運転する車は樹々の間を縫うように走って行く。やがて虎たちの跋扈するタイガを越えて、その先のどこまでも広く不毛なツンドラをトナカイたちを横目にしながら突き進み、さらにその向こう、海の上へ向かう。車は白い波を立てる海の上を滑るように走り、クジラをかわしながら流氷をジャンプ台にして空に向かう。彼の向かう先の空は夜の深い色彩で、宝石のように一面に星が散らばっている。そしてその星々を背景に、冷たく燃える炎のようなオーロラが、幻惑的な色彩に揺れながら輝いている。ツァーヴェの車は、その輝きの舞う中へ真っ直ぐに進んでゆくのだった。

遠い朝の本たち

2007年09月06日 | 読書録
 今日の帰り道、だらだら歩いていたら「カットモデルをやってくれないか」と声をかけられた。つまり、美容師さんの練習台だ。これから冬にかけて髪を伸ばす季節なので、断ろうかとも思ったのだが、ちょうどまとまりが悪くなっている時期でもあり、タダならラッキーかなとも思い、やってもらうことにした。それで、結局髪型はベリーショートの夏バージョンに逆戻り。まあ、でもすっきりした。
 髪の毛を切ってもらっている間に、外の様子がどんどんすごくなってきて、台風を実感。明日にかけて相当に荒れそうだ。

 一昨日から、久々に須賀敦子さんの本を読んでいた。妻が買って、うちにあったのだが、まだ読んでいないままだった「遠い朝の本たち」。読み始めてすぐに引き込まれた。彼女の文章は、美しい水のようにすっと身体のなかに入ってくる。
 最近、意識的に再読をしようとしている。勿論、新しいものも読むのだが、かつて面白いと感じた本の内容をかなり忘れていることに気がついたからだ。記憶力が衰えたこともあるけれど、もしかしたら何かを取りこぼしているのかもしれない。上手くいえないけれど、例えばそんな気がするのだ。
 とても個人的なことなのだけれど、このニ三年、時々僕にとってインプットの時期はもう過ぎたのだろうと感じている。そして、これからは少しづつアウトプットをしてゆくべきなのだろうと思っている。いや、今までもアウトプットはしてきているのだが、これから先はこれまでとは違う形で何かを作り出して行く時期なのだろうという気がしているのだ。そうした流れの中で、これまでに読んできた本の再読という過程がある気がする。そうした気分には、須賀さんの本はとてもよく合う。

新・地底旅行

2007年09月05日 | 読書録
「新・地底旅行」 奥泉光著 朝日新聞社刊

を読む。

 「日本ジュールヴェルヌ研究会」が次の会誌で取り上げる題材は「地底旅行」だということ。今月の24日に読書会をするので、よかったらどうですかと誘っていただいた。有難く拝聴させていただくことにした。
 それで、ふと思い出したのが以前朝日新聞に連載されていた「新・地底旅行」。連載時は全く読まなかったのだが、この機会にちょっと読んでみようと図書館から借りてきた。
 500ページ近い大冊。だが、読み易い。ずっと翻訳本を読んでいると、日本語で最初から書かれた本がとても読み易く感じる。
 二次創作ものということで、期待はそれほどしていなかったのだが、思ったよりも面白くて、なかなかのものだった。場所は日本に移されているが、時代設定も当時のもので、リデンブロック教授の甥アクセルの出版した手記を読んでいるということになっている。
 ヴェルヌの「地底旅行」の矛盾点や疑問点について、新しく解釈を加えているあたり、なかなか興味深い。もっとも、それをヴェルヌファンが納得するかどうかはまた別の話だろうが。ただ、このタイトルは、別のものの方がよかったような気がする。ヴェルヌの「地底旅行」とは、オマージュが沢山散りばめられているものの、かなり違うものだからだ。じゃあどういうのがいいのかと言われれば、言葉に詰まるが、作中夏目漱石を常に意識し、登場させてさえいるところからも、その弟子である内田百が「贋作・我輩は猫である」を書いたことに倣って、「贋作・地底旅行」とするとか、その方がよかったのではないかとも思った。
 この小説は、終りがややあっけない。これは意識的にだそうで、いずれ続編を書いてみたいという作者の思惑だそうだ。

海に入って行く

2007年09月04日 | 記憶の扉

 海に入って行く。
 海に潜る、というよりも、入って行く、と言う方がしっくり来る気がする。
 
 かつては、僕には海は恐ろしい場所だった。
 僕は小学校の高学年になるまで泳げなかった。低学年の頃、泳げないでいる僕を一人の男の先生がプールの一番深い場所に投げ込み、危く溺れそうになったことがある。恐ろしさとともに、学年中の生徒が見ている前でそんなことをするなんてと、先生を恨んだ。それから、僕はずっと水が怖かった。神戸の海岸線に住んでいて、目の前が海だといっても、足の着かない場所になどどうしても行く事が出来なかった。いち早く海に慣れて、平気でどんどんと沖へ出てゆく弟たちが眩しくて仕方なかった。普段は下僕のように扱っている弟の浮かんでいるあの場所は、僕には辿り着くことのできない場所だと思った。僕は足の着くような浅瀬で、浮き輪に捕まっているだけで精一杯だったのだ。
 だが、高学年になってスイミングスクールに通うようになり、転機がやってきた。通い始めて比較的早いうちに、僕は泳げるようになり、水泳も嫌いではなくなった。そして次第に、海がとても好きになっていった。足の着かないところでも平気で行けるようになった。だがそれからも長い間、僕にとって海はちょっと泳ぐ場所であり、それ以上に、眺める場所であった。僕にとって海は、常に傍らにいる心地よい風景の一部だった。夏の昼間に防波堤の上に横たわったり、夕方の浜辺を散歩したり、また、真夜中の海を見ながら花火をしたり、誰かと海を見ながら歩いたり、例えばそうした場所だった。東京に移り、その心地よい風景が失われるまで、僕には海はあって当たり前のものだった。それが有難いとさえ、感じることはなかった。
 
 波間にたゆたい、目の前に一面の青さが広がる時、大きく息を吸い込み、身体を二つに折って、真っ直ぐに潜行する。それはその揺れる透明な青さの中に身体を滑り込ませるためだ。青さの中に滑り込むと、海中をゆっくりと進む。そこはもう地上とは別の世界だ。ここで大きく息を吸い込むと、僕は命を失うだろう。疑いもない。ここには、僕のための大気はないのだ。だから、静かに身体の中に地上を蓄えたまま進む。身体を捻り、上を見上げると、ちらちらと白く揺れる水面が見える。あの光のある場所が、本来の僕のいる場所なのだと思う。そう思いながら、水の中を進む。やがて息が苦しくなってくると、怖くなってくる。そして浮上する。シュノーケルから水を少しづつ吐き出しながら浮上し、それでもじっと水面下の光景を見詰めている。ここからの光景と、海の中に入っていって見る光景は違う、と思う。海には幾つもの相貌がある。波上で揺れている僕はまだ傍観者だ。だが、海の中に入って行けば、僕はこの世界と背中合わせになった世界に身を置くことができる。異邦人として、束の間の時間にすぎないのだが、確かにその一端には触れることができる。そして再び身体を折り、潜行する。海の中にも森があり、花がある。だが、それは地上の森や花ではない。海の中でも、様々な音が聞こえる。常に音が舞っている。だが、その音は、地上の音ではない。それは地上の世界に寄り添って存在する森であり、花であり、音なのだ。
 いつか年を取ったとき、最後の旅先は海の中がいい。今はまだ束の間の時間しか訪れることの出来ない別の世界を、ゆっくりと時間をかけて巡りたい。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 4・転落・6

2007年09月03日 | 月の雪原
 いいえ。母はっきりとイワージュを見詰めて、言った。病気なんかじゃありません。あれは事故です。それに。母は言葉を区切った。そして、はっきりと言った。トゥーリはきっと生きています。
 ああ、もちろん事故です。失礼なことを言いました。イワージュは目を真っ赤にした母から視線を逸らした。ですが、これ以上の捜索は、春になるまでは無理です。分かっていただきたい。
 分かっています、と母は言った。助けていただいて、感謝しています。おかげで確信できました。トゥーリが見つからなかったということは、きっと生きていて、ここに向かっているに違いありません。
 ですが、もう三日も経ちます。イワージュは母を見詰めて言った。
 怪我をしているんです。母は言った。そうでなければ、記憶に障害が出ているのかもしれません。でも、いずれは戻ってくるはずです。
 そうかもしれません。イワージュは俯いて言った。祈りましょう。
 その時、アトレウスがそっと母の側に立った。そして、肩に手を遣った。母ははっとしたようにアトレウスの顔を見たが、すぐに俯き、また顔を上げてアトレウスを見詰めた。そして言った。私はここでトゥーリの帰りを待つわ。
 アトレウスは何も言わなかった。周りの人々も、誰も何も言わなかった。
 だって、彼が帰ってきて誰もいなかったら、困るでしょう。母は続けた。だから、私はここから離れないわ。
 アトレウスはじっと母の顔を見詰めていたが、やがて頷いて、言った。そうだな。待っていてやれよ。そのほうがいい。必要なものがあれば、俺が届けてやるよ。
 ありがとう。母は言った。
 いや。アトレウスは言った。トゥーリは俺にとっても大事な友人だった。オルガ、君にも負けないほど俺は彼のことは心配しているのさ。だが、悪いが一年だけだ。俺がここに通うのは。一年が過ぎて、それでもトゥーリが戻らなかったら、君もツァーヴェを連れて町に移ってくれ。それでもいいか?
 母は長い時間黙っていた。アトレウスは続けた。いや、トゥーリはいずれ戻るさ。俺も信じている。だが、オルガ、君やツァーヴェをこんな人里離れた場所にずっと住ませておくわけにはゆかない。君はまだ若い女性だし、ツァーヴェはもうすぐ学校に通わなければならないだろう。一年経ったら、君にトゥーリのことは忘れろというつもりはないんだ。だが、ここに君たちが二人だけでずっと住むのは危険だ。俺は君たちのことも心配なんだ。トゥーリのためには、この家に書置きを残しておけば済むと思うんだ。
 それでも母は黙っていた。アトレウスはその沈黙に、辛抱強く耐えた。やがて、母は小さな声で言った。そうね。そうするわ。