漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 4・転落・7

2007年09月09日 | 月の雪原
 ……そうね、そうするわ。
 その声がすぐ耳元で聞こえたような気がして、ツァーヴェははっとして辺りを見回した。だが誰の姿も見えない。見えるのは、見慣れた森の光景だけ。そうだ僕はたった一人でアトレウスの車の運転席に座り絵本を開いていたのだ、とツァーヴェは思った。それほど記憶の中に没入していたのだった。
 辺りはしんとしていた。世界が一斉に息を潜めたかのように静かだった。ツァーヴェは膝上の絵本の表紙をじっと眺めた。表紙には広い平原の中に建つ家とそこへ向かう男の後ろ姿があったが、それらは小さく描かれており、画面の大半を占めているのは渦巻くようなタッチで青く塗られた夜空で、そこには遊ぶように舞っている緑色に輝く北極光が輝いていた。本文中にもあった絵だが、表紙にあるとまた違った印象に見えた。
 ツァーヴェは思った。この男は少年で、空の北極光は彼の父親や、それからこの世に未練を残している人々なのだろう。でも、この話のようなことが本当にあるんだろうか。本当にあるんだとしたら、もしかしたら僕のお父さんも空に上ってオーロラになったのかもしれないな。だって、お父さんはいまだに見つかっていないのだ。見つからないのは、今は空にいるからかもしれないじゃないか。だとしたら、いつか僕はお父さんに会いに行けるのかもしれない。
 ツァーヴェはもう一つキャンディーを口に頬張った。ねっとりとした強い甘さが口の中に広がった。キャンディーを頬袋に落とし込むと、その甘さに頬が少し痛んだ。
 もう少ししたら家に帰ろう、とツァーヴェは思った。もう少しここで遊んで、あと二十分くらいしてから帰ろう。
 ツァーヴェは絵本を助手席に置いた。そしてハンドルに手をかけて、自分がタイガの森の中を切り裂くように走って行く姿をまた思い描いた。
 タイガの中を貫く道を外れ、密林の中に深く入り込み、ツァーヴェの運転する車は樹々の間を縫うように走って行く。やがて虎たちの跋扈するタイガを越えて、その先のどこまでも広く不毛なツンドラをトナカイたちを横目にしながら突き進み、さらにその向こう、海の上へ向かう。車は白い波を立てる海の上を滑るように走り、クジラをかわしながら流氷をジャンプ台にして空に向かう。彼の向かう先の空は夜の深い色彩で、宝石のように一面に星が散らばっている。そしてその星々を背景に、冷たく燃える炎のようなオーロラが、幻惑的な色彩に揺れながら輝いている。ツァーヴェの車は、その輝きの舞う中へ真っ直ぐに進んでゆくのだった。