漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 5・オルガ・2

2007年09月26日 | 月の雪原
 「まだ、か」アトレウスは言った。「いつも同じ話になる。俺だってトゥーリの無事を信じていたい。だが、もう一年だ。最初の約束は一年だけ待つってことだったろう。約束の期限はもう来ている。本当なら、俺はもうここに来る必要なんてないんだ。俺は、約束はちゃんと守ったんだからな」
 「じゃあ、もう来なければいいわ」
 「落ち着けよ。悪かった。言い過ぎだった。だが、俺は君たちのことを思っているんだ。トゥーリを君が大切に思っていることは知っている。俺にとってもトゥーリは大事な友達だった。だからこそ、君たちをこのまま放ってはおけないんだ。トゥーリのためにも、俺は君とツァーヴェを幸せにしてやりたいと思っている」そしてアトレウスは付け加えた。「でもそれは、ただの同情や義務感じゃない。本当の気持ちだ」
 「わかっているわ」とオルガは小さな声で言った。「あなたがとてもいい人だということは、本当に分かっているのよ」
 「それよりも、僕の君に対する愛を信じて欲しいんだが」アトレウスは言った。「だが、言っても始まらないんだろうな」
 「ええ、今は無理だわ」
 「そうか」
 アトレウスは立ち上がった。そして窓辺に寄り、外を見た。窓の外には崖とその先の森が見えた。アトレウスはその崖にトゥーリが立っている姿を思い浮かべた。想像の中で、トゥーリは決してこちらを振り向かなかった。アトレウスは小さく身震いをした。どうしてそんな震えが襲ったのか分からなかったが、どこかで罪悪感のようなものを感じているのかもしれないなと思った。アトレウスは窓から視線を逸らした。
 「夏までは待つよ。さっき言ったように」アトレウスは言った。「それまでに考えておいてくれるか?」
 オルガは答えなかった。それでもアトレウスはじっと辛抱して、彼女の言葉を待った。だが、ついには諦めて言った。「夏までだよ。今度は本当だ。もう次の秋にはここには来ない」
 オルガは俯いた。アトレウスは続けた。「次の夏になったら、君とツァーヴェを引っ張ってでも連れて行く。泣こうが喚こうが、必ず連れて町へ行くつもりだ。覚悟しておいてくれ」
 部屋の中にしんとした空気が流れた。アトレウスはオルガの肩に手をかけた。「冬の間にも来れる時には来るよ。多分、二、三回ほどかもしれないが……何とか乗り切ってくれ」
 「ありがとう」オルガは呟くように言った。
 アトレウスは頷いた。「そろそろ行くよ」
 アトレウスはオルガに口づけ、部屋を横切って扉を開いた。爽やかな風の向こうに、小さな影が見えた。それはツァーヴェが絵本とキャンディーを持って帰って来る姿だった。アトレウスは手を振った。すると遠くでツァーヴェの小さな影が手を上げて、小さく振るのが見えた。