漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』

2020年01月08日 | 雑記

ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(青木次生訳/ゴシック叢書/国書刊行会)読了。

 「哲学のような小説を書く」と呼ばれることもあるジェイムズ。要するに分かり難い小説を書くという意味だろうが、「異色の吸血鬼小説」とも「妄想の生み出した物語」とも読めるこの小説も、彼の有名な怪奇小説の古典である『ねじの回転』同様、決して一筋縄でゆくものではない。
 物語はニューマーチ邸での週末の集いに招かれて「私」が向かう、その電車の車中に始まる。そこで偶然に出会ったブリセンデン夫人とギルバート・ロング、二人の変わりように私は驚く。かつてはずっと年下の夫と結婚したかなり年配だったはずの夫人がまるで二十歳そこそこのような若さを取り戻しており(後にわかるが、彼女の夫の方は、まるで老人のように老けてしまっていた)、またかつては愚鈍であったロングが知性的になっていたのだ。そこから私は、二人がそれぞれ「若さ」と「知性」を相手から吸い取る、作中ではそういう呼び方はされないけれども、一種の吸血鬼のような能力を持つ人物であると判断する。そして、夫人が夫の若さを吸い取ったのは確かだろうが、ロングはいったい誰の知性を吸い取ったのだろうかと考え、ニューマーチ邸に集う夫人たちの誰がロングの知性の「聖なる泉」なのか(つまり浮気相手なのか)と観察を始める…
 結局、最後まで物語の真実は明白にはならないのだが、訳文に不明なところもなく、きちんと一文一文辿ってゆけば、決して読みにくいというものではない。ただ、小説自体が「私」の思考の流れを追ってゆくものなので、客観性がほとんどなく、読み手にとっても想像するしかないという意味において、非常に分かり難いものになっている。読み方も、先に書いたように「異色の吸血鬼小説」としての読み方もできるし、一種の推理小説としても(最後のブリセンデン夫人との対決のシーンは読み応えがある)、あるいはただ浮気相手を嗅ぎまわっているだけの小説といった読み方までできる。ただ、おそらく多くの人がそう思うであろう素直な読み方は、「妄想の生み出した物語」という読み方だろうと思う。これは、例えばミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『欲望』のように、実際には存在しない事件を、自分に都合の良い事実だけを拾い集めながら、追い求めていたという解釈。だとすれば、今では「ああなるほど」という感じだろうが、当時としては、これはかなり前衛的で、斬新だったのではないだろうかと思った。

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