漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

η・・・卵とひよこ・6

2008年02月25日 | ティアラの街角から
 今でもはっきりとあのときの光景は憶えています。初夏の宵のことでした。あちらこちらの家から夕餉の香りが漂い、愉しそうな声がしていました。細い路地にも、灯りが漏れていました。見上げると、空はまだ完全には暗くなりきれていないといったような群青で、それでも一面に星が出ていました。触れると痛そうな、鋭い三日月が空にかかっていたのも憶えています。家を飛び出したところで、行く当てなどあるはずはありませんでした。両親のどちらかでも、追いかけてくるかとも少し期待していましたが、その気配さえありません。それでわたしは余計に寂しくなって、知らず知らずのうちに涙が出てきました。けれども顔を伏せて、誰にも見られないようにしながら路地を歩いて行きました。行く当てなどありませんでしたが、足は次第に町から離れて、今わたしたちがいる此の場所へ向かっていました。理由は単純なことです。あの頃、わたしたちはよくこの場所に集まって、皆で遊んでいたのです。よく知っている場所に足が向かうのは、当然のことでした。
 ところが、暫く歩いているとどこからかわたしの名前を呼ぶ声が聞こえてきました。それで、ふと足を止めました。近付いてくる足音がして、またわたしの名前を呼びます。その時、わたしの名前を呼ぶその声が『彼』のものであることに気付きました。わたしの目はまだ涙で濡れていましたし、きっと腫れてもいるに違いありません。それで、きまりが悪くなったわたしは気付かなかった振りをして、足を早めました。けれども、後ろから足音はずっと付いてきます。わたしは振り返りもせずに、ずっと歩き続けました。すると、足音が急に早くなって、すぐに『彼』がわたしに追いついてきました。
 何で逃げんだよ、と『彼』が言いました。けれどもすぐに『彼』はわたしが泣いていることに気付いて、言葉を続けることが出来なくなったようでした。その様子に、わたしはなぜかちょっと落ち着いたような気持ちになりました。
 泣いてるのよ、とわたしは言いました。見ればわかるでしょ。何であんたがここにいるのよ。恥ずかしいからもう見ないでよ。あっちへ行って。
 『彼』は戸惑った様子でしたが、立ち去ろうとはしませんでした。やがて、『彼』は言いました。
 なあ、どうかしたのか?
 どうもしないわ。もう放っといて。
 わたしはそう言うと、彼を残してさっさと歩いて行きました。けれども、そうして歩きながら、ずっとどこかで『彼』の気配を探っていました。しかし彼の足音はもう聞こえては来ませんでした。酷いことを言ったから呆れたんだろう、とわたしは思いました。そう思うと、またわたしは寂しくなりました。また涙が溢れてくるのを感じました。それで、それからは真っ直ぐ足早に、この場所に向かって歩いて行きました。