世界がまたまた戦争の危機にある。
過去に於いて学習したものであるが、負の連鎖は途切れてはいないようである。
地球はまだまだ発展途上にある星である。
過去の戦争から学んだはずなのに、未だ道徳を窮めることが無い。
そして誰もいなくなった・・となるまで悲しみは続くものと思われる。
悲しむものと喜ぶものが共にいなくなった時から、負の連鎖は途切れるものである。
そうでない限り、この「奪い合う」という傲慢で卑劣な仕組みからは逃れることはないだろう。
悪意に対して報いる行為は悪にしかない。
かつて、貪欲で無情で冷淡な生き物がこの地上を闊歩していた時、
忽然と姿を消し去ったのは、有情にあるものの仕業にして為された果である。
目に余る様という悲惨な現状を思い、その感情に動かされたものである。
それは、意にして正常な働きである。これが正義という自由の善悪の識別である。
エネルギーの法則に適った有情である。
人間は、この宇宙で自分たちが中心で生きてあるものと捉え、孤独な存在であると思いがちである。
「自分達がいる」というだけで、本来
周囲を理解できるものであることを知るなら、道徳に即ち長けていくものであり、
人間は、宇宙の孤独な存在ではないと知れるのであるが・・・。
発展途上にあるものの内は、過つのが然りでもあり、
ながら、‘百匹目の猿’の様にある数に達した時、不思議が起こるものでもある。これは、
生命エネルギーが、自然の法則いわゆる、エネルギーの法則そのものに順応したものである。
自然と理解できていき、善悪の判断の正しい識別となるのである。
現代社会では、この「百匹目の猿」の話は嘘であることが暴かれてはいる。が、時の流れが
進化という経過をたどるものである為に、「一概に」とすることもまたできないものでもある。
マクロな世界はミクロな世界とは異なった様を作る。この反対も同様である。が、物事、事物は
一如の存在として成り立っている。量子の振る舞いが、このマクロな世界を作り上げていることを
深く知らねばならない。これは、何よりも、エネルギーの自由によって成り立っている世界である。
参考になる言葉を一つ思い出してみよう。上杉鷹山の言葉である。
「為せば成る 為さねば成らぬ何ごとも 成らぬは人の為さぬなりけり」と。
無理という言葉は、道理に無いという事であるから、本来は絶対がつくものである。
無理が通れば道理が引っ込むという言葉もあるもので、
自然の摂理は自由である。だから、
世に道理に無い事を行えば、つまり、無理なことを行えば、道理に適ったことが行われなくなり、淘汰されていくことになる。
無理矢理にというのは通らないのである。
自然の摂理は、善悪が無いが故の絶対善である。この理を正しく判断して、
エネルギーの法則の自由に沿う事である。
そうすれば、摩擦となる事が無く、滞りなく滑らかな動きとなり、円満と流れていくのである。
これが、生命エネルギーの幸福という自由である。永遠であり絶対の世界である。
過去に於いて学習したものであるが、負の連鎖は途切れてはいないようである。
地球はまだまだ発展途上にある星である。
過去の戦争から学んだはずなのに、未だ道徳を窮めることが無い。
そして誰もいなくなった・・となるまで悲しみは続くものと思われる。
悲しむものと喜ぶものが共にいなくなった時から、負の連鎖は途切れるものである。
そうでない限り、この「奪い合う」という傲慢で卑劣な仕組みからは逃れることはないだろう。
悪意に対して報いる行為は悪にしかない。
かつて、貪欲で無情で冷淡な生き物がこの地上を闊歩していた時、
忽然と姿を消し去ったのは、有情にあるものの仕業にして為された果である。
目に余る様という悲惨な現状を思い、その感情に動かされたものである。
それは、意にして正常な働きである。これが正義という自由の善悪の識別である。
エネルギーの法則に適った有情である。
人間は、この宇宙で自分たちが中心で生きてあるものと捉え、孤独な存在であると思いがちである。
「自分達がいる」というだけで、本来
周囲を理解できるものであることを知るなら、道徳に即ち長けていくものであり、
人間は、宇宙の孤独な存在ではないと知れるのであるが・・・。
発展途上にあるものの内は、過つのが然りでもあり、
ながら、‘百匹目の猿’の様にある数に達した時、不思議が起こるものでもある。これは、
生命エネルギーが、自然の法則いわゆる、エネルギーの法則そのものに順応したものである。
自然と理解できていき、善悪の判断の正しい識別となるのである。
現代社会では、この「百匹目の猿」の話は嘘であることが暴かれてはいる。が、時の流れが
進化という経過をたどるものである為に、「一概に」とすることもまたできないものでもある。
マクロな世界はミクロな世界とは異なった様を作る。この反対も同様である。が、物事、事物は
一如の存在として成り立っている。量子の振る舞いが、このマクロな世界を作り上げていることを
深く知らねばならない。これは、何よりも、エネルギーの自由によって成り立っている世界である。
参考になる言葉を一つ思い出してみよう。上杉鷹山の言葉である。
「為せば成る 為さねば成らぬ何ごとも 成らぬは人の為さぬなりけり」と。
無理という言葉は、道理に無いという事であるから、本来は絶対がつくものである。
無理が通れば道理が引っ込むという言葉もあるもので、
自然の摂理は自由である。だから、
世に道理に無い事を行えば、つまり、無理なことを行えば、道理に適ったことが行われなくなり、淘汰されていくことになる。
無理矢理にというのは通らないのである。
自然の摂理は、善悪が無いが故の絶対善である。この理を正しく判断して、
エネルギーの法則の自由に沿う事である。
そうすれば、摩擦となる事が無く、滞りなく滑らかな動きとなり、円満と流れていくのである。
これが、生命エネルギーの幸福という自由である。永遠であり絶対の世界である。