つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無理が通れば道理が引っ込む

2017-04-09 | Weblog
世界がまたまた戦争の危機にある。
過去に於いて学習したものであるが、負の連鎖は途切れてはいないようである。
地球はまだまだ発展途上にある星である。
過去の戦争から学んだはずなのに、未だ道徳を窮めることが無い。
そして誰もいなくなった・・となるまで悲しみは続くものと思われる。
悲しむものと喜ぶものが共にいなくなった時から、負の連鎖は途切れるものである。
そうでない限り、この「奪い合う」という傲慢で卑劣な仕組みからは逃れることはないだろう。
悪意に対して報いる行為は悪にしかない。
かつて、貪欲で無情で冷淡な生き物がこの地上を闊歩していた時、
忽然と姿を消し去ったのは、有情にあるものの仕業にして為された果である。
目に余る様という悲惨な現状を思い、その感情に動かされたものである。
それは、意にして正常な働きである。これが正義という自由の善悪の識別である。
エネルギーの法則に適った有情である。

人間は、この宇宙で自分たちが中心で生きてあるものと捉え、孤独な存在であると思いがちである。
「自分達がいる」というだけで、本来
周囲を理解できるものであることを知るなら、道徳に即ち長けていくものであり、
人間は、宇宙の孤独な存在ではないと知れるのであるが・・・。
発展途上にあるものの内は、過つのが然りでもあり、
ながら、‘百匹目の猿’の様にある数に達した時、不思議が起こるものでもある。これは、
生命エネルギーが、自然の法則いわゆる、エネルギーの法則そのものに順応したものである。
自然と理解できていき、善悪の判断の正しい識別となるのである。
現代社会では、この「百匹目の猿」の話は嘘であることが暴かれてはいる。が、時の流れが
進化という経過をたどるものである為に、「一概に」とすることもまたできないものでもある。

マクロな世界はミクロな世界とは異なった様を作る。この反対も同様である。が、物事、事物は
一如の存在として成り立っている。量子の振る舞いが、このマクロな世界を作り上げていることを
深く知らねばならない。これは、何よりも、エネルギーの自由によって成り立っている世界である。

参考になる言葉を一つ思い出してみよう。上杉鷹山の言葉である。
「為せば成る 為さねば成らぬ何ごとも 成らぬは人の為さぬなりけり」と。

無理という言葉は、道理に無いという事であるから、本来は絶対がつくものである。
無理が通れば道理が引っ込むという言葉もあるもので、
自然の摂理は自由である。だから、
世に道理に無い事を行えば、つまり、無理なことを行えば、道理に適ったことが行われなくなり、淘汰されていくことになる。
無理矢理にというのは通らないのである。

自然の摂理は、善悪が無いが故の絶対善である。この理を正しく判断して、
エネルギーの法則の自由に沿う事である。
そうすれば、摩擦となる事が無く、滞りなく滑らかな動きとなり、円満と流れていくのである。
これが、生命エネルギーの幸福という自由である。永遠であり絶対の世界である。
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