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つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

格調高く

2017-01-17 | Weblog
豊かな人の心は、
本当に優しいのか?
貧しい人の心は、
本当に浅ましいのか?
それぞれの立場に立ってみれば見えてくる、人格というもの。
立場によって変わるのなら、ふしだらである。
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貧乏の得

2017-01-16 | Weblog
貧乏になれば愛情のあるなしがみえてくる。
本当に優しい人とそうでない人との選別ができる。
貧乏の徳である。
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悟性

2017-01-15 | Weblog
釈迦は、人とのハイブリット構成生命体、そのために、人の心をよく理解する。
悪と善を持ち合わせ、善神でもあり悪神でもある。
創造と破壊という太陽の二面性を具えている。
理性をもって勉め励むこと、しかも、怠ることなくが生命エネルギーの理であることを訓える。

自由が根本存在の理由である。

そのために、全てが存在となるもので、それは、‘成せば成る為さねばならぬ何ごとも、
ならぬは人の為さぬなりけり’という言葉のとおりである。
深遠と思えばその通りであるが、易しの中にあるものでもある。
偏に、捉え方の交互を時々に重ね合わせて的を得るものである。
自由とはそういう事である。何の縛りも持たないが、縛りつけるのは、
智慧の無さにあり、自由を自由として思わないところに問題がある。
自由を疑わないことに尽きるが、疑って不自由となり、紆余曲折となるのもしかありである。
ただ一心、筋がとおしてあれば必然もとに辿り着く道理である。して、
始めに戻っても、それは、同一にして同一ではないものである。
昨日の私と今日の私は、一見同じ私であれども、
全く輝きの違ったものとなっている。
世の中の見え方は、そのようにして見えてあるものである。
各々の自由から見えている。
迷いあぐねて、終に辿り着くのは、はじめからある知っての言葉、
「信」にある。
疑って「信」をわすれて、悉く打ちのめされて、
「信」に縋りつくことを覚えて「信」に懸ける。
他力の力に本願を求めてこそ「真」を得る。
迷いの過程が自身の力、努力である。弱くて細々でぼろぼろであるが、理性をもって精進努力である。
そうすれば、自由が適う。他力の力が手に入る。
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天と地の別

2017-01-14 | Weblog
世界が相対にあることを知る。
明があり暗がある。
苦があり楽がある。
先があれば後がある。
後先は一緒である。
苦楽も同じにある。
それを中空として、明暗の客体を認識する。
暗明という言葉は無い。
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正しい記憶に託す

2017-01-14 | Weblog
吾の心を覚える。
即ち、生命エネルギーを覚る。
即ち、受を感知する。
即ち、自覚する。
即ち、自由を知る。
自業自得である。

二度と再生を望まずとも、
業として再生にあり、
苦難にして覚悟離さず、
智慧を持って寂静を得る。
ただ智慧を持ってのみ希望とす。
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薄れゆく情けは・

2017-01-10 | Weblog
除夜の鐘がうるさいという苦情、
保育園や幼稚園など園児の声がうるさいという苦情があると聞く。
あまりにも嘆かわしいことである。
薄情な社会になったものだとつくづく思う。
そんな苦情を言う大人の社会は、世の末である。
まさに世情を映して、時代は混沌とし、暗い世相にはいった。
人情はどこへ忘れ去られてきたのだろう。
悲壮なニュースばかりとなっていく。
「情けは人の為ならず、巡り廻って自分の為」よく心得るべきである。
情けの無い世の中は、つぶれて本望である。
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気にしない

2017-01-08 | Weblog
気はエネルギー。
だから、
気としないことが肝要である。
例えば、
病気となってしまったとき、
病気を意識してしまうことによって、
病気が絶対化され存在となってしまう為に、
意識すればするほど、病気に侵されてしまう。
常に意識してしまう事で、病気が活き活きとなるのである。
それと反対に、
病気を忘れてしまうほど時間に追われていれば、
病気という存在が薄められてしぼんでいく様を見せる。
ふっと一段落ついた時、病気であったことを思い出すと、
その症状が復活して悩まされる。

無視をする、されるというのは、生きてあるものにはほとほとこたえるのである。

病は気からという言葉があるが、うなずけるものである。

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知恵を付けること

2017-01-05 | Weblog
近年、若い母親は正面に子供をおんぶする。
おじいちゃんおばあちゃんの若い頃は、
おんぶは背中であった。
それは、子供を守るという意味合いで理に適っていた。
もちろん、親も子供をあやしながらいろいろ忙しく動けたものである。
その動きに、いつしか子供はすやすや眠りに付いたものだ。
物音や動作に神経質になることもなく、親の動きが眠りを誘うもので、
背中の温かさや大きさに安心を得ていたのである。
正面におんぶすれば、親も動きに制限されてしまい、
いろいろ作業がおぼつかない、はかどらないものである。
それよりなにより、親の盾となって、親を守ることになる。
赤子が親を守るという逆転現象となる。
昔の人は、知らず知らずに自然の理に適っていたやり方をしていたのである。
車に乗る時でも、
子供を自分の前で抱っこしないことである。
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闇の扉が開かれた新年

2017-01-04 | Weblog
先進国である日本は豊かな国である、と思われている。
確かに、発展途上にある国よりは豊かに違いないだろう。
でも、格差が激しくあり、年々その差は大きくなっている。
義務教育にある子供の給食費が払えない親が増えている。
最も、義務教育でありながら何かと金がかかる仕組みとなっているために、
うなずけることである。その仕組みを見直せばいいだけのことなのに、
見直すこともなく、低所得であるものの自業自得としてしまっている。
経済的弱者にはとても恐ろしい国である。
愛情面の最後進国ともいえるのではないだろうか。
経済大国の最も恐ろしい落とし穴は、金に苦しみ殺されることである。
法律を作る政治家が悪くなくて誰が悪いといえるのだろうか?
東大進学率は、親が金持ちが多いという。
そんな裕福な家庭で育った人が政治家には多いものだから、
庶民の貧しい暮らしなど考えたこともないのだろう。
金ありき、裕福ありきで国は成り立っていると思っているために、
格差是正といいながら、的外れなことばかりしているのである。
弱者切り捨て金持ち優遇制度ばかり作り上げる。
それはそうだろう、自分たちが金持ちなのだから、
自分達をより守りたがるのは当たり前である。
どんな手立てで大衆を騙そうかと、もっともらしい口実を作り上げ、
金持ちの生活から目をそらさせ、貧困を何とかしなければということに
だけ目を向けさせている。
時給最低賃金、五円十円上げるのに何年もかけて、上がったところで、
生活苦は少しも変わらない。我が国、
今日もどこかで誰かが首をつり、電車に身を投げて命を終える国でもある。
金持ち国の病、うつ病。
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ちんぷんかんぷんであると思われる

2017-01-04 | Weblog
日本は日出国である。
神はこの国に降臨し、この国から世界に散らばっていった。
プレデターという映画があるが、彼らは高度に進化した異星人として描かれ、
まさに毘沙門天の如く修羅にあるもので、戦いに挑んでいく生物。
天部にある知的生命体の様相を、架空の存在として知ら占めている。が、
智能レベルの低い状態にある人類には、荒唐無稽として認識され、彼らの思惑通りにされている。
人類から見れば、神々である。悪神と善神、天使と悪魔。真実に実在している知的生命体であるが、
人類は証明できていないために、肯定もできず由って否定もできない。
彼らの思惑の中で時間は進められているものである。

エネルギーの法則は自由から成り立っている。
その自由は、神々とて変えることはできない。
神々も法則の下の存在であるためである。たとえて、
法則を超えてしまった能力があったとするなら、超えた時点で、
存在とならないのである。
エネルギーの法則は、諸々の法則であり絶対である。
如何なるものも、その力を変えられないものとなっているのである。
超えた時点で無力となるのである。と言い表すことしかできない。
譬える必要さえないのであるが、わかりやすくするために伝える方便である。

実際に人類という生命体があり、地球という星には様々なる生命があるように、
宇宙は広大で無辺な様としてあり、他の星々もまた、地球と同じ生命体が存在するものである。
それはその環境に応じた存在であり、低能有能、地球と同じようにしてあるのである。
この同じ様な存在というのは、あなたと私が同じ人間であるが、全くの別人であり、
しかしながら、同じ理屈での在り方を持っていて、違う生き方をするが、
人皆同じ生死となっていることの理解である。
ともかく、この自由でもって過去も現在も未来も予知できるが、一寸先は闇であるように、
変化絶え間ない。予める時が不測の現象となるのである。
幾つもの現象世界が生じるのである。それは、神々とて確定として示し申すことはできないのである。

さて、ただ一つ知れることは、必ず元に戻るというのが、自由の性質である。
これをもって、どんなに過程を操作されても、やがて元通り元に戻るのである。
その周期は、環境に応じてあるものである。それぞれの・。
そこは、混沌としていて、しかも綺麗で、自業自得によるものとなっている。




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