釈迦は、人とのハイブリット構成生命体、そのために、人の心をよく理解する。
悪と善を持ち合わせ、善神でもあり悪神でもある。
創造と破壊という太陽の二面性を具えている。
理性をもって勉め励むこと、しかも、怠ることなくが生命エネルギーの理であることを訓える。
自由が根本存在の理由である。
そのために、全てが存在となるもので、それは、‘成せば成る為さねばならぬ何ごとも、
ならぬは人の為さぬなりけり’という言葉のとおりである。
深遠と思えばその通りであるが、易しの中にあるものでもある。
偏に、捉え方の交互を時々に重ね合わせて的を得るものである。
自由とはそういう事である。何の縛りも持たないが、縛りつけるのは、
智慧の無さにあり、自由を自由として思わないところに問題がある。
自由を疑わないことに尽きるが、疑って不自由となり、紆余曲折となるのもしかありである。
ただ一心、筋がとおしてあれば必然もとに辿り着く道理である。して、
始めに戻っても、それは、同一にして同一ではないものである。
昨日の私と今日の私は、一見同じ私であれども、
全く輝きの違ったものとなっている。
世の中の見え方は、そのようにして見えてあるものである。
各々の自由から見えている。
迷いあぐねて、終に辿り着くのは、はじめからある知っての言葉、
「信」にある。
疑って「信」をわすれて、悉く打ちのめされて、
「信」に縋りつくことを覚えて「信」に懸ける。
他力の力に本願を求めてこそ「真」を得る。
迷いの過程が自身の力、努力である。弱くて細々でぼろぼろであるが、理性をもって精進努力である。
そうすれば、自由が適う。他力の力が手に入る。