つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

種の保存

2013-11-03 | Weblog
蛙の子は蛙である。蛙が牛を見て腹を膨らませても、
牛よりも大きな腹にはなれずに、それでも張り合って腹を膨らませれば
破れて死んでしまう。
どんなに頑張っても蛙は蛙なのであって、牛のようにはなれないものである。
張り合うじたいが間違っているもので、それをわからずして争えば元も子もないものである。

人の道に恥じずになったものは堂々である。だから、堂々としているだけでよい。
なにもあれこれたじろぐことはいらない。道理に適えば道徳となり倫理に適う。それは、
正しい浄化であるために、どんな過程を辿ろうともしまいにはよく守られる。

損得で物事を見てしまえば、しまいには損となっている。
損には害が付く。
損得勘定の心の行く末は、心底害されてしまうものとなっている。

よい時にはとんとん拍子にことがはかどる。
悪い時には坂道を転がる如くに落ちていく。
なにやら調子のよしあしというのは日和見的である。
損得を思わずしてただ懸命であるなら、事の成り行きは良きにとどまる。

これはこうだ、あれはあーだと識者は分けるが、識者といえども人の子である。
あれはあーだ、これはこうだと裁くのもその人の主観である。
けっして客観になることはできない。だから、過つものである。


コップに選択肢は無いものである。
コップは、そこに何を入れられても文句は言えない。
ただコップとしてあったためにという事実である。
コップがなければ何も入れられることはないものなのだが。
入れようとするものにはとんでもない自由があり、とんでもないことをする。
とんでもないことばかりされるからと、コップがあれこれ言おうとしてもそれはできない。コップであるためである。
コップに入れるものではないものを入れようとするとんでもない輩が増えて、だからとて、
コップに入れられるものはこれとこれ、あれとあれと保護、規制することはできない。
コップを正しく使いましょうと、コップの身になって代弁するだけである。
使う人の道徳、倫理である。それを正していくことが最善である。
ただ俗世、人の世というのは、善悪が分かってわからない。
それは、法則、諸々なるを司っている宇宙の法則、エネルギーの法則を知らないためである。
エネルギーですべてが存在しているもので、そのエネルギーがエネルギーであるが故に、渦を巻き廻るという自由を持ち、
質となっている。そのために、無くなることがなく、始まりも終わりも無いものとなって続いているのである。
ゆえに、明日は絶対やってくる。一つ一つの区切りとして常に新が始まり廻っているのである。新となるのは元を通るというか戻るためである。
元となるためにゼロという容になり浄化となっているものである。それがすべてに当てはまる。
このエネルギーによって生命も作られているために、生命には死というものが無いものである。
毎日が同じ繰り返しとなっている。道理である。道理であるために、毎日が同じことを繰り返すことで、
それが絶対となり正しいとなっていく。善悪というのはそこに生まれてくる。もともと法則には善悪は無いが、
同じことを繰り返していくことが絶対正しいとなるために、法の道理をよく知って、法に沿って繰り返すことである。
法は浄化である。

肉体は諸行無常にあるために一つ一つ区切られていくもので、死という様となっているが、生命そのものはそのまま続いていくのである。
一つ一つ生きた人生の経験(業)が縁となって様々が作られていく。人生で経験した心の思いが、ある人生の時、また、ある人生の時と積み重なって統一されて、
現在の心となっていく。性格となっている。現在がどのように生きたか、その行いによって質の変化が生まれていく。向上も低下もある。
だから、怠ることなく精進努力が肝心となっている。
人間形成は、生きている時に為せるものである。死んでからでは変えられない。生まれてきて、人生として経験を積んでいく時だけである。
そのために、無駄に生きてはならないし、ただ無駄に人生というのはあるのではない。強いて言えば、法則に無知であるために、
誤った生き方をして、だから、何度も生まれ変わってくる。そのメリットは、正せること一つに尽きる。デメリットは、苦を受ける、である。
それは、法の慈悲である。
そんなこんなで、法則というものを正しく覚れば、道理がよく守ってくれるために、自然に事のよしあしが見えてきて、正しく生きられる。
今生、いまだ覚には至らないとしても、正しく生きたことは利となって徳が積まれたことである。この上なく大事なことである。
死んで何もなくなるというということではないのである。だから、苦しいからといって自死したり、
悪いことをして生きた人は、縁によってそのまま苦しむ世界となっている。死後の世界というのは心の世界である。
時間も空間も無い世界である。そのために、好き勝手我儘に生きた人は、それなりの世界、つまり苦しむ世界で永遠となる。
何百年、何千年、何万年、何億年と時が経ってもそこにいることになる。考えるだけで恐ろしい苦を受け続ける世界である。
ただ、無知で生きているために、縁をもってそれなりの世界にまた生まれを受ける。生まれてこの世に出た時が何万年経った後であっても、
自分が死んだときとの接点はゼロである。前世との時の隔たりは心には無い。ただ、白紙となって無知な状態のまま生まれてくる。それが子供の動きとなっている。
また一から学んでいく。ただ質は繋がっているために、目覚めれば才能が働く。

蛙の子をあらためるには業に他ならない。その種を保存しないことである。
知識という常識を外して、知恵を付けてみることである。だんだん見えてくる。
いずれ知らないことは無くなっていく。
智恵を具えるということはそういうことである。道理の目であるために・・。






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