南無という文字は、ナマスというサンスクリット語の音訳とされていて、
これが屈するとか礼するいう意味であるために、漢字で帰依、帰命、敬礼などと訳して付けられている。
だから、南無仏とは仏に帰依するということになる。・・・が・・・
経は音写でその文字を充てて作られているのではない。一文字一文字漢字のもつ意味をもって訳され充てられているものである。
南は方角であり、温かく明るい方向を指すいわゆる入口ということであり、「門」を意味するのである。
無というのは、「無い」ではなく、「無くならない」とするためにつけられている「無」である。つまり、
南無とは、「無くなることのない南の門に入る」という「入門」という意味である。だから、
南無妙法蓮華経というのは、無くなることのない妙なる法蓮華経に入る、入門するということである。
般若心経の無と同じ無である。無くならないと言う意味の無として充てられている文字である。
この無の意味をただ単に「ない」と訳してしまう為に、すべての否定となって、
今こうしてある自分の実態、実体までも否定となって、すべての実体の否定となって、わけのわからないものとなってしまう。
般若心経は説いている。「心無罣礙、無罣礙」と訓えている。
「心は、文字にさまたげられるものではなく、心の自由で理解するものである」と。
横文字である梵語は、縦文字である漢文に正しく訳されている。そのために、訳されたものであることを示して経として、縦という意味の
文字をつけているのである。
けっして音写で充てられている文字ではない。文字の意味がよく理解されて充てられ訳されたものである。
これが屈するとか礼するいう意味であるために、漢字で帰依、帰命、敬礼などと訳して付けられている。
だから、南無仏とは仏に帰依するということになる。・・・が・・・
経は音写でその文字を充てて作られているのではない。一文字一文字漢字のもつ意味をもって訳され充てられているものである。
南は方角であり、温かく明るい方向を指すいわゆる入口ということであり、「門」を意味するのである。
無というのは、「無い」ではなく、「無くならない」とするためにつけられている「無」である。つまり、
南無とは、「無くなることのない南の門に入る」という「入門」という意味である。だから、
南無妙法蓮華経というのは、無くなることのない妙なる法蓮華経に入る、入門するということである。
般若心経の無と同じ無である。無くならないと言う意味の無として充てられている文字である。
この無の意味をただ単に「ない」と訳してしまう為に、すべての否定となって、
今こうしてある自分の実態、実体までも否定となって、すべての実体の否定となって、わけのわからないものとなってしまう。
般若心経は説いている。「心無罣礙、無罣礙」と訓えている。
「心は、文字にさまたげられるものではなく、心の自由で理解するものである」と。
横文字である梵語は、縦文字である漢文に正しく訳されている。そのために、訳されたものであることを示して経として、縦という意味の
文字をつけているのである。
けっして音写で充てられている文字ではない。文字の意味がよく理解されて充てられ訳されたものである。
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