つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

浄化の時近し

2022-11-05 | Weblog
自らに然り(しかあり)、自らそうである、だから自然という。
自然に作られたものであるために自分という。
意識をもって自ずとこの身に宿り、一つの生涯を与る。
その生涯は、自身の意識(生命エネルギー)を磨くためにある。
意識の向上それは浄化である。
何も知らない意識(心)を肉体という物体に宿してこそ、意識の向上(浄化)が図れるものであるために、
一生懸命生きる。肉体を通しての経験がエネルギーの法則(道理)を知る。その知識が知恵となる。
そのために身体を大事にして生きるが、身体に宿る意識(心)がもっと大切であるために、身体を大事にするものである。
この順番が誤れば、死(肉体の消滅)が恐怖となってしまう。意識(心)が生命エネルギーそのものであるために、
肉体に執着してはならない。
自身独自の知識、その知の識別が意(心)の意地を作る。正しく識別(エネルギーの法則に沿う)されれば、
善い意地となり善い性質となっていく。性善となる。
幾度も幾度も道理に学んだ経験は性格となっていく。
一生涯は性格の向上となって、格段の違いを生んでいく。つまり、生命エネルギーである魂は、磨かれ磨かれ
優れた魂(精神)となって、神にも通じるもの(力)を具える。
精げられた魂(生命エネルギー)は、神通力を得て、自身の意のまま(自由)に操ることができていく。
意識、その想念の判断は瞬時にして、誤りのないものとなる。
道理に学んだ自身の経験の知識が知恵となり、あらゆる事柄に対して直感的に正しい判断を得る。
道理には善悪は無い。
善悪がないために絶対善とした判断ができ、その意識は、すべてにおいて誤りのない判断となっている。

自然から分かれてきた自分は、自然の判断ができ自由にして、
いつでも覚悟して生きていくことである。
魂は生命エネルギーであり、エネルギーの法則は円運動の自由であるために、
無くなることがなく永遠の存在、唯一のエネルギーとなっている。
限りなく拡大し限りなく収縮して、その姿形は環状帯状である。
ゆえに、減りもしないし増えもしない。常にゼロに戻りゼロから始まる。

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