つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

道理

2012-01-15 | Weblog
見えないが
なにやら揺らいで陽炎となり、廻り廻り膨らんで空ろとなった。
外にあるものは中に入り込み、入り込んでは外となって、そのように揺らいでうつろな容となっている。
揺らぎは次第に勢い益して次へ次へと移っていく。ここにあったものはもうここにはなく、かといって無くなってしまったというのでもなく、
絶え間ない川の流れのようである。「・・しかももとの水に非ず」のように。
ゼロという姿であり、無いという姿をとり、元の容をとどめて、あるという無いに在る。
僅かに歪んでいる間は楕円である為に、その揺らぎの惰性でしょうめつとなっていくが、
歪みが消滅となれば、絶対な円となって、揺らぎも揺らぎでなくなり無変化となっていく。
絶対世界となって不二の世界となっている。

川の流れの水は見て取って、元の水のようで元の水ではないために、いつもきれいになっている。
揺らいでいる(廻り動いている)ために、
きれいもよごれてしまい、よごれもまたきれいになっていく変化が絶えず繰り返されていく為に、
そこに、きれいもきたないもなく、きれいとなっている。ゼロという在り方で、これが法則の容である。
これが絶対善となっているために、すべてが浄化されるものとなっている。

生命はゆらぎである。ゆらぎはエネルギーである。
生命エネルギーがその変化に対応し、適応していくために、
個々の種が生まれてくる。完全に適応してしまえば浄化されたものとなって、
動く必要がなくなっていくが、完全となるまでは動くことによってその変化に対応し、
完全存在となるまで生滅を繰り返す。
生命の動きはすべて法の動きと同じとなっている。浄化であるために、
浄化していくことが人生となっている。そこには善いも悪いもないために、
善いことをしていくことが理に適うことである。
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