唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (38)九難義 (18) 唯識所因 (16)

2016-06-26 21:53:42 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 第三の量。
 「此の親所縁は定めて此(六識)に離るるに非ず。二(相・見)の随一なるが故に。彼の能縁の如し。」(『論』第七・二十一左)
  (宗)「六識の親所縁は定んで六識を離れざるべし。
  (因)「相分・見分の二分中の随一に摂するが故に。」
  (喩)「彼の能縁の見分の如し。」
親所縁は親所縁縁で、二つの所縁の一つになります。所縁縁とは、心が知る対象をいいます。対象である相分と見分の関係です。根・境によって識が生ずるということになります。また、根・境・識の三和合において触の心所が働くといわれています。つまり、対象が無ければ、識は生まれないことになります。「境識倶泯」(キョウシキクミン)という考え方が生まれてくる背景になります。対象を所縁縁として識が生ずるわけです。その所縁縁に親所縁縁と疎所縁縁に分けれるわけです。疎所縁縁は本質(ホンゼツ)、親所縁縁は影像(ヨウゾウ)という関係です。親所縁縁は、「鏡中影像」とも云われていますが、鏡の中に映し出された影を指しますが、映し出す本来の相があるのですね、それが本質相分と呼ばれる疎所縁縁なのです。阿頼耶識が具現化した相分のことなのです。親所縁縁は、見る側の見分が直接見られる側の相分を縁じて認識を起こすわけです。
 ここで、認識を起こす親所縁である相分は、六識を離れて生起するものではない、つまり、相分があって見分が起こるのではなく、見分は対象が無ければ起こることはないのですから、見分が作り上げた相分であるということなんです。
 私たちは、認識対象である相分を「ありのまま」認識しているのではないという事を知らなければなりません。「ありのまま」を認識しているのが阿頼耶識の相分なのです。そして私が認識を起こす時には「私」の色づけをして、例えば花としますと、花と私を分けて、花を相分とし、私を見分として、私が花を認識しているという構造になるわけです。
 このことを、第三の量は教えてくれます。
 「親所縁は即ちこれ相分なりという。他は識を体とするに非ずというを恐れるが故に今はこれを成ず。・・・謂く此の六識の親所縁縁は定めて此の六識に離れるに非ざるべし。相見二分の内随一に摂するが故に。彼の能縁の見分の如し。見分は不離識なり。体は即ち是れ識なり、故に以て喩と為す。」(『述記』第七末・十五左)
 識に離れて、実体的に、固定的に事物が存在するするのではない、認識される対象があっても、認識される時には見分という認識する側の心の状態によって色づけされてくるということになります。

 この四比量を述べているのですが、ちょっと戻りますと、
 「又伽陀に説かく」
 「心と意と識との所縁は皆自性に離るるに非ず。故に我一切唯識のみ有りて余は無しと説くと」
 この一文を解釈しているところになりますが、この伽陀が『厚厳経』であると注釈がされているのです。このことについて論文が公開されています。紹介します。一読されるのもいいかと思います。
 印度学仏教学研究 VOL42(1993~1994)NO.2p659ー663
『厚厳経』と『大乗密厳経』 北尾隆心著 (2010/3/09ネット公開)
一部を紹介しますと、
 「『厚厳経』という経典は、法相宗の根本論典である『成唯識論』の所依の経論とされる六経十一論の内の一つである。
 しかし、『成唯識論』の中においては『厚厳経』という経名は―切見出すことはできないのである。
 では何故に、『厚厳経』という経典が『成唯識論』の所依の経論の一つとされるかというと、それは慈恩大師窺基(六三二〜六八二)が『成唯識論述記』において『成唯識論』の
中に引用される六つの伽陀を『厚厳経』の伽陀として註記されたことによるのである。
 そして、この『厚厳経』と『大乗密厳経』(以下『密厳経』と略す)とが一般には同本とされているのである。
 この両経の同本説は、真興(九三五〜一〇〇四)の『唯識義私記』の中において、『厚厳経』と『密厳経』とは同本であ
ると記載されたことによっている。」