唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (35)九難義 (15) 唯識所因 (13)

2016-06-20 22:40:59 | 『成唯識論』に学ぶ
  若き仏教徒によく読まれているらしいので、遅れを取らないためにも熟読を。

 昨日の投稿に河合先生からコメントをいただきました。コメントを読ませていただいて、「はっと」気づかされたことがありました。自己に背くものは自己、安田先生の教えではありますが、ややこしいことを言いますが、自己に背いている自己がいると思っている自己がいつも頭をもたげている、と言った方が僕を言い当てているように思ったのです。その証拠に「この野郎」と思っている人に頭は下がりません。仏法はいつしかどこかに吹っ飛んでいます。見えないんです。自分がですね。見えたふりをしている自分が恐ろしいですね。
 なんともですね、私と貴方という構図での関係でしか生きていけません。どこまでいっても、私の判断です。これは見えませんわ。分別しかないんですね。
 教えは、分別しかない私を言い当ててきます。
 「道を求める」という在り方は八万四千の法門で、その主体は「私」です。
 「道すでにあり」という眼差しを親鸞聖人にお伺いたしますと、
 「宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」(玄義分)と云えり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」(『化身土巻』)
「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。(『化身土巻』)
随縁雑善恐難生」というは、「随縁」は、衆生のおのおのの縁にしたがいて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを、極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆえに、実報土にはうまれずと、きらわるるゆえに、「恐難生」といえり。「恐」は、おそるという。真の報土に、雑善・自力の善うまるということを、おそるるなり。「難生」は、うまれがたしとなり](『唯信鈔文意』)と。
 「常没の凡愚」という眼差しが持てるのでしょうか、我愛は許しませんね。自分からは出て来ないのですね。そしたら、どこから出てくるのか、それが「門余」示されています本願一乗海なのでしょう。本願一乗海においてのみ「素直」になれるのでしょう。愚縛の凡愚と頭が下がっているのでしょうね。僕と教法とは紙一重の手の届かない深さがあるようです。

 「三の智に随って転ずる智」の三番目の解になります。
 「三には無分別智に随って転ぜるをする智。謂く実を証する無分別智を起こすときには、一切の境相皆現前せず。」(『論』第七・二十一右)
 無分別智とは、簡単にいえば無漏の智慧です。三つの無分別智が説かれます。加行無分別智(加行位において起こす無分別智)と根本無分別智(見道通達位において起こす無分別智)と後得無分別智(修道修習位において起こす無分別智)です。
 聖道門において、どこで無分別智が現れるのかが問われているのですが、離言の世界ですね。
 『維摩経』においてもですね、文殊菩薩は最後に維摩にも「不二の法門」について説いてもらいたいと頼みます。この時、維摩は口をとざして一言も語らなかったのです。これを『維摩の一黙』というのですが、この維摩の一黙ということは、真理は言葉ではなかなか表現できるものではなく、仏心から仏心に直接伝えられるという「不立文字教外別伝」「以心伝心」において言葉を超えて伝わってくる智慧なのではないでしょうか。
 「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」(『唯信鈔文意』)と教えてくださいます。
 無分別智が現前しますと、対象が現れないと云っています。つまり、言葉で捉えた、分別された対象は現れないという。一如の世界ですね。本来あるべき世界観。空、無我の世界ですね。
 「無分別智が現前」しませんと、分別という闘争の世界に身を置くことになります。
 対象が実在するならば、「現前せず」とは言えませんね。唯識無境が証明されてあるのです。