唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (33)九難義 (13) 唯識所因 (12)

2016-06-16 22:50:16 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 四つの智の四番目です。
 「四つには三の智に随って転ずる智」と云われています。
 三の智に随って転ずる智である、と。つまり、三の智に随って境相が転ぜられるので唯識無境であると観察する智慧を意味します。
 三の智とは?
 (1) 随自在者智転智(自在者の智に随って転ぜるをする智)
 (2) 随観察者智転智(観察者の智に随って転ぜるをする智)
 (3) 随無分別智転智(無分別の智に随って転ぜるをする智)
 一つには自在者の智に随って転ぜるをする智であると。
 「一つには自在者の智に随って転ぜるをする智。謂く己に心の自在を証得せる者は、欲に随って地等を転変して皆成ず。境若し実有ならば如何ぞ変ずべき。」(『論』第七・二十一右)
 (一つには自在者の智に随って転ずることが出来る智である。つまり、八地已上の菩薩は心自在にして、自分の希望するところに随って大地等が転変して金色になる。対象世界が若し実有であるなら、どうして転換することができようか、できないではないか。)
 「述して曰く、第一に、心自在を得たる者とは、謂く心が調順(心住の一つ。外的な感覚の対象や内的な煩悩の為に流散する心を制御・抑制して平静ならしめる状態)なることを得て、所作有るに堪えたり。若し勝れたるものならば、ただ第八已去なり。任運に実に大地等を変じて、金宝と為して用せしめることを得、境は智に随って欲するところを皆成ず。或は意解(理解すること)に思惟して観ずるも、境もまた成ずと雖も、然も今は本質を転換(転換本質)することを取って、此を取らず。前解を是と為す。」(『述記』第七末・十二右)
 八地以上の菩薩は心自在なんですね。対象を意のままに変化さすことが出来ると云っているわけです。すごく意味が深いですよ。信心の行者は八地以上の菩薩と匹敵するのですね。便同弥勒、次如弥勒と云われています。
   「真実信心うるゆえに
     すなわち定聚にいりぬれば
     補処の弥勒におなじくて
     無上覚をさとるなり」(『正像末和讃』)
 過去は過ぎ去り、未来は未だ来たらず。しかれども、過去に執らわれている現在があり、未来に思いを馳せる現在がある。過未無体を執して今が無い。これが凡夫と云われている正体ではないですか。これが転換するんです。実体化していた境は、実は我が心の影像であったと。実体化する何物もないわけですね。心が転換せしめるのです。心はチッタ。阿頼耶識。阿頼耶識が変化する(転依する)わけです。そうすれば、大地が金色に輝くといっているのです。
 『唯信鈔』のお言葉が響いてきます。
 「ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。」(『行文類』)
 「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)。 
 「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。」(『唯信鈔文意』真聖p553)
 ですから、執を依り所としているかぎり、境は実体化されているわけです。ところが八地已上の菩薩になりますと、このような執から解放され、心は自在を得て任運に法爾なんでしょう。すべては私を育て育んでいるご縁であると掌が合わさっているのでしょうね。 ここが、一番目の唯識無境を証明している智になるわけです。