唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門 『成唯識論』第五回目講義概要

2013-03-23 22:53:12 | インポート

 本日の講義の内容を概略します。校正文は後日掲載します。

 

 「先月は、「仮に由りて我・法ありと説く」我と法によって一切をつつんでいることを述べました。そして我とは何か、法とは何かを「成唯識論」の所説に従って述べました。「仮」について二種あることは『述起』に「無体随情仮」と「有体施設仮」とをもって、我・法は「仮」に説かれてていることを明らかにされていました。
 今日は、先月と少し重なるところがありますが、「我・法と分別しつつ熏習せし力の故に、諸識の生ずる時、変じて我・法に似れり」から進めていきます。これは我・法の相はどのようにして現われてくるのかを述べています。熏習・現行・種子という三法が同時因果として、諸識(八識)が生起することを述べています。熏習とは、現行熏種子と、現行が種子を熏習するといいます。現行とは、具体的に現れた識(七転識)のことで、現行した心の働きが深層に働く潜在的な阿頼耶識に種子を熏習することを現行熏種子といい、そして熏習された種子から現行してくる働きを種子生現行といわれています。熏習・種子も阿頼耶識に蓄えられたもので、現行によって熏習されたものを、熏習された気分ということで、習気といい、現行を生じる方面からは種子といいます。我・法の相が現行するのは、習気から縁に随って諸識が生じてくるのですね。そしてこの習気=種子は阿頼耶識に摂蔵されているのです。
 「我・法分別」は他と区別して認識するわけですが、何を基準とするのか、これは一言でいいますと、自分にとって損か得かという我意ですね。我意によって区別されたものが、我であり、法であるわけです。この分別された我法が無始以来熏習されている。それが大きな力でその力から逃れることはできないという構造になっているのですね。無始以来刹那刹那に熏習された種子から現行してくるわけですから、今に始まったわけではないのですね。しかし、それは実我・実法ではないのですね、「変じて我・法に似れり」、「我・法に似ている」にすぎないのだと。「似ているにすぎない」のだけれども、無始以来、我・法と執着してきたわけですから、この認識から離れることはできないと述べています。
 「諸の有情の類は、無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我・実法と為す。」
 有情という情識を有する者ですね、無始よりこのかた、外境に似て現じたものを縁じて実の我・実の法と思い込んでいる、それは恰もですね、次に出てきます、患と夢の譬えのようなのです。
 高熱がでて、うなされているときに夢を見る、無いものが有るという幻覚ですね、幻覚が実我・実法である、幻覚だけれども真実だと思い込んでいるわけです、顛倒です。真実は内識が外境に似て現れているに過ぎないのですが、私たちは外境が存在すると思い、執着をおこして実であるとして、「唯だ識のみ」ということがわからないのですね。気づきがでてきません。
 以上『頌』の最初の三句
 「仮に由りて我法有りと説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る」を釈しました。
 次は「総じて三句を解す」。三段に分けて説かれます。
一、「我・法の仮なる理由」を示します。
 無体随情仮
 有体施設仮
 「愚かな凡夫は、虚妄の分別によって計らって我・法を実と誤り、実我・実法と執しているが、体は無く、虚妄のものである。しかし有情は実我・実法と執しているわけですから、有情の妄情によりそって説いて、仮に施設する、これはですね、仮に説かなければ、有情の妄情・執着を解くことが出来ないのです。
 今度は、「内識の所変」です。所変は相分ですね、この相分は内識が変化したものなのですが、有情は相分に現れたさまざまな相が実のものであると誤って認識しています。本当は、外境に似て現じているのですね。ですから、似我・似法である、と。しかし実我・実法ではない、と。「有りと雖も、実の我・法の性に非ず。然も彼に似りて現ぜり。故に説いて仮と為す。」「彼に似り現ぜりて」といいますから、依他起性であるという、護法の摂になるわけです。実我・実法は全く無し、似我。似法は無ではない、無ではないが、仮に我・法と説くのだ、と。「仮」ということが非常に大事なことですね。「仮」ということにおいて「執」を超えることができるのです。
 二、「増減の執を遮す」
実我・実法が有るといえば、増益の過失となり、また無といえば損減の過失になるということを破斥します。ここに二つの科段が述べられます。
 「外境は情に随って~識の如くなるに非ず」。実我・実法は、妄情の上だけのもので、識のように有ではない。
 「内識は~境の如くなるに非ず」。内識は因縁によって生じた縁起の法(依他起性)ですから、外境のように無ではない、有に非ず、無に非ず、「此れに由りて便ち増減の二執を遮す」と、唯識の道理によって増減の二執を遮す、二執を遮して唯識性を明かにしているのです。
 余談になりますが、安田先生は、この内識ということで、「花があって、意識するのでなく、花の意識である。花を内境としてもっている。花を内容としている。対象というものを、作用の中に表現している。識というものは、何か(境)というものに似てあらわれている。何かがあって、それに用きかけるのでなく、用きかけるものを、その中に表現している。その事実を唯識という。識が何かに似て現ずることが、識転変である。パリナーマが唯識の事実を語る。現じているままが、識のうちにある。
 唯識というのは、識転変の事実に見いだされた道理であって、説明しようというのではない。全く意識の事実そのもののもっている道理である。識は何かに似て現じているから、それに基づいて、何かが仮説される。花という言葉には、花に似て現じた識。識転変において仮説されるという構造である。」(『選集』二・p51)と教えておられます。次は「仮」の第三の説明です。
 三、「諦に依って仮を摂む」、諦というのは世俗諦・勝義諦のことをいっています。外境も内識も仮立されたものですが、「仮」は、この二諦のどちらに摂められるのか、という問いです。外境は世俗諦のみに仮に有と説く、「識は境の所依の事」、境は識に依って有るわけですから、内識は勝義諦においても有であると説かれているのです。
 前置きが長くなりましたが、今日の本題はここからの、「広く頌を釈す」と。今まで述べてきた「仮」の三つの説明を、更に詳しく述べる、ということになります。」内容は、破我と破法です。実我・実法を破斥します。
 はじめに問いがだされます。「云何ぞ応に知るべきや、」、科文には「広く外執を破て頌の義を成ず・一に総じて問う。二は略して外徴に答う、三に別問別答」と示されています。
 「唯だ識のみあって外境は無いということがどうして知られるのか」という問いが先ずだされます。答が「実我・実法は得可からざるが故に」これが、二の「略して外徴に答う」になります。存在しているということは、外に有るということ、外境として認識されているということは、実我・実法として存在していることに外なりません。しかし、答は外境は無いと、外境は存在しないといっているのですね。外境は識転変であるということなのです。「内識のみ有りて外境に似りて生ぜり」ということになります。
 別問別答
 一、実我を執するを破す。「如何ぞ実我は得可からざるや」どうして実我はないといえるのか。そして答えられるのですが、五段に分かれて述べられます。
 第一段、「三類の計(け)を叙し正しく外道を破す」。三類の計といわれています。計とは、考える、分別する。認識的には誤った思考をいう。三類に共通する概念は「常」ということです。「我の体は常である」ということ。我とは何かということは、我は常・一・主・宰といわれていました。我の体は常であるが、我は大きいか、小さいかという設問がだされています。
 「一つには執すらく、~」我の量は虚空と同じ大きさで、どのきでも遍く偏在している、と。我が周遍しているからこそ、いついかなるところ、いついかなる時でも苦・楽を感ずるのである、と。「業を造る」とはこのようなことなのでしょうね。
 二に、「執すらく~」
 量(大きさ)は不定である。身の大小に随って巻舒(かんじょーちいさくすることとおおきくするおと)することが有るということ。例えば、象はおおきく、蟻は小さく、身の大小において我もまた大小があるという。
 三に、「細さること~」
 我は極微である。身の中に気づかれないような極微に沈潜して体中を回って作業をしているのである。
 このように、我の実体を三つにわけて論証しているのですが、この論証を破斥していきます。
 「理に非ず」と。
 一に、常であり、周遍しているのであれば、苦・楽というような変化はないはずである。従って苦・楽を受けることはないであろう、と。また、常遍というのであれば、動転することはないはずである。
次に所執の我は同じなのか、違うのかという問いですね。考えさせられる問題ですが、若し同じならば、一人が行為を起こせば、他の一切が行為することになる。反対に一人が解脱すれば、他の一切も解脱することになる、これはおおきな過失である、我は周遍しているというのであるから、、「若し異なりと言わば」「我が重なり合って区別がつかなくなるであろう」そして周遍しているのならば、一人が業を造れば、他の一切も業を為し、果を受ける時は、他の一切も果を受けることになってしまう。このようなことに過失が無いと主張するならば、周遍するということに違背する。従って、一人が解脱すれば、一切の人も解脱するということになる。
 二を破斥します。巻舒する我を破斥します。これは、我は常住ならば、身に随って大小することはないであろう。巻舒はない。反対に巻舒があるというのならば、それは櫜籥(たくやく)風みたいなもので、それは常住ではない。櫜籥、たく(ふいご)とやく(ふいごに風を送る管)で、風と関係する道具として譬えの中で用いられる。
 身に随うなら、分析(ぶんしゃく)-区分すること。分けて考察すること。することになり、我の体は常一ではなくなってしまい、執すべきものではない。恰も「童豎(どうじゅ)」童子の戯れのようなもので、全くたわいがないものである。豎はしもべ、こどものこと。
 小さな我を破す。
 「後のも亦た理に非ず。~」
我が極微のように小さいなら、大きな身をどうして遍動させることができるのか。
若し、という問いを立てて、
 「小なりと雖も而も速く身を巡ること旋火輪(せんかりん)の如くにして、遍動するに似たりといわば、則ち所執の我は、一にも非ず、常にも非ざるべし。諸の往来すること有るものは常・一に非ざるが故に。」
 小さいけれども、旋火輪のように速く身を巡るというのであれば、我は常でもなく、一でもないことになる。すなわち、往ったり、来たりするものは常・一ではないからである。
 旋火輪 - 火をぐるぐる回すことできる火の輪のこと。火の輪があるわけではなく、火の粉の連続体が有るだけであることから、すべての存在は刹那に生滅して実体がないことの喩として用いられる。
 次は分科の第二、「別して三類の計を叙し兼ねて小乗を破す」
我と五蘊の関係から、我の三種を説く。
 即蘊 - 身と心とがそのまま我であるとする説。
 離蘊 - 五蘊を離れて独立して有るとする説。
 非即非離蘊 - 五蘊に即するものでもなく、離れるものでもないとする説。
 それぞれ個別に説明されます。
 先ず、即蘊の我を破す。
 我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということです。「又」と、五蘊それぞれについて論じられます。
 「内(うち)の諸色」(肉体・五根と扶塵根)も「外の諸色」(外の物質)のように、質礙(ぜつげ)
 質礙(ぜつげ)― 物質(色)が有する二つの性質(変壊と質礙)の一つ。物のさまたげる性質。同一空間・場所を共有することができないこと。
 同一空間・場所を共有することをさまたげるものは、我ではない、ということ。 尚、変壊は、事物・事象が変化して壊れること。苦が生じる因となる。
 「心」は心王・識
 「心所法」は、受・想・行 (余の四蘊)
これも亦た、実我ではない、なぜなら、余の四蘊は衆縁(さまざまな縁)をまって生ずるから、相続しませんし、断絶がありますから、我とはいえないですね。
  「余の行」 諸行無常の行、有為法のことをいっています。最初の二つ以外の有為法(心不相応行法)と、「余の色」、外の諸色と法処所摂の色(五根と五境)五根は眼・耳・鼻・舌・身とその対象、色・声・香・味・触、それに意識の対象となる特別なもの、意識の所縁の色を法処所摂色といわれています。意識の対象となる特別の物質。、「第六識の無辺法界の事をしる中に有る色法なり」(『二巻抄』)法処とは意識の対象となる法という領域で、五識の対象とはなりえない、ただ意識の対象となるもの、という意味です。これらが、「覚の性に非ざるが故に」、覚性とは、心・心所のことで、「非」ですから、心・心所とは別なもの、たとえば虚空のようなもので、これを我というわけにはいかない。
 次に、離蘊の我を破す。
五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、「瓶等の如く」とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。
「故に彼が所執の実我は成ぜず」と。成り立たない。
 次は、すでに述べた、一と二の三類の計の差別(異なり)の執我(執着された我の異説)を総じて破斥す。
 初めは思慮の有無です。三類の計で述べられた我には思慮が有るのか、無いのか等で、そのいずれかでもあっても我は成り立たないことを説明します。
 思慮があるのであれば、常・一・主・宰の義に反します。
 思慮がないのであれば、虚空のようなもので、業を作ることも、果を受けることもできません、ともに、所執の我は思慮の有無にかかわらず、成り立たないのですね。
 二は、作用(さゆう)の有無を破斥します。
 実我の体に作用が有るのか、無いのかちう問いを立て、有るとすれば、それは無常であり、実我とはいえない。また、無いといえば、我は無いことになる。兎角(とかく)等のようである、兎の耳をみてそれを角だと思った時の角で、実際には存在しないものである。
 三は、我見の境・非境の破斥
 我があるという見解ですね。我見が、我を所縁の境としてみることができるのか、できないのかという問いですね。
 我見の境でないとすれば、所縁でないのにどうして我があると知ることが出来るのか。、我が有るとか無いとかいえるのかということです。
 我見の所縁の境であるといえば、
我を見ることができるというのであれば、その我は真実であり、見も顛倒ではなく、正見ということになります。しかし、我見は自己が存在するという見解で、末那識相応の四煩悩の一つで、潜在的な自己執着心ですから、生死に沈んで輪廻すると批判されます。無我の見は涅槃を証すると称賛されます。「豈」と反対の論証をもって破斥していますね。我見を邪なる見と、邪なる見が正しいなら、邪なる見が涅槃を証し、正しい見が生死に沈むことになる。
 我は我見の境に非ず。我見は我を縁ぜず。
「我をすという見は」と。これは、我を縁ずる見という意味です。我を認識して(我を縁じて)我が有るといっているわけですが、では本当に我はあるのかという設問です。答は、「実我を縁ぜざるべし」、思い込みがありますが、我を縁じているのではなく、体や心などの、所縁を縁じているのですよと。「余を縁ずる心の如し」と。自分の体や心を縁ずることはできるが、これは体や心を縁じているのであって、我を縁じているのではない、ということ。我見が縁じているのは、実我を縁じているのではなく、所縁を縁じている、そして、「所余の法」、今ならば、桜ですね、木蓮、雪柳といったような、木や花を縁じているのと同じだと。所縁を縁じているだけであって、我を縁じているのではない、結論として、我見であっても、それは内識の変化した諸の蘊を縁じているのであって、我そのものを縁じているのではない、それは「自の妄情に随って種々に計度す、分別しているのである。」我執の妄情がそれを「我」と思っているに過ぎない、と破斥します。
 次は分別起・倶生起の我執が述べられますが、これは来月に譲ります。」