唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(19) 別境 ・勝解について

2013-03-06 23:28:51 | 心の構造について

 唯識においての勝解の理解は、有部の「大地法」に於いて、勝解は(欲・念・定・慧も遍行であるという)遍行であるといわれていることに対して、そうではないのだと、勝解は決定の境に対して、はっきりと何であるのかを認識内容を確定することをもって、その本質的な働きとする、と定義されました。自分の方向性が正しく、かつ確定していることをいいます。そうしますと、心心所が生起するときには、必ず勝解が働いているということにはならないですね。ですから有部の異師の説は不障の増上縁(何事をも妨げない縁)にあたるということであるといわれています。

 「勝れて発起するものは根と作意となるが故に」(『論』第五・二十九左)

 有部の異師の反論が『述記』に想定され、この異義を護法が論破しているのです。「ただ勝解の増上(勝)力に由るが故に、心等を発起し所礙とならず」(心の生起を障害しないものを勝解といっているのではなく、勝れた力によって、心等を生起させ、障害とはならないことを勝解といっているのである)と。これが異義です。これに対して護法は「勝れて心等を生起させるものは、根と作意であるから、有部の異師が言う増勝力であるという指摘は勝解の働きではない、と論破しています。

 「勝れて発起する因は根とおよび作意との二法の力なり。何ぞ勝解に関せんや」(『述記』)

 また、有部の異師の反論が想定されています。「もし彼が救して、根と作意との自力のみをもって、勝れて諸の心心所を発起することをなす能わず。またこの勝解の力によるが故に、かの根と作意とは方によく発起すと言わば、」(護法の主張している根と作意は、自らの力で諸の心心所を生起させることはできないものであって、勝解の力によって、根と作意に働きかけ、はじめて、根と作意が勝れた力を発揮し、心心所を生起させるのである。これは勝解によるのであるから、勝解は遍行である)と。この異議を再反論するのが次の科段になります。 

 「若し此れに由るが故に彼いい勝れて発起すといわば、此れも復余を待つ応し。便ち無窮の失(とが)有りぬ」(『論』第五・二十九左)

 もし、勝解によって、根と作意が勝れて心等を引き起こすというのであれば、これ(勝解)もまた、余(他)のものを待つことになる。すなわちどこまでいってもきりのない過失に陥ってしまう。これによって有部の異師の反論は誤りである、ということがわかる。

 

 有部の異師の再反論の想定は『述記』が述べているところでは、「(護法の主張している)根と作意との自力のみをもって、勝れて諸の心心所を発起することをなす能わず。」というものです。護法の主張している根と作意は、自らの力でもって心心所を生起させることはできないものである、と論破し、根と作意が力を発揮できるのは、勝解の力によるものであって、それによって、心心所が生起するものであるから、勝解は遍行であると再反論していることが、想定されるわけです。その再反論に対しての論破が「若由此故彼勝発起。此応復待余。便有無窮失」になるわけです。唯識は対論形式が多様ですので、ここにもいくつかの問題が提起されていますが、今は省略をしておきます。ただ「勝解」は「決定の境のみ勝解を起すなり」という金言に耳を傾け、「自分の居場所・行き場所をはっきりするということ」が大切ではないかと思います。 (つづく、次回は『述記』の所論を述べます。)