唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『たのんで助かるとは』 安田理深述 (4)

2012-02-19 21:45:38 | 『たのんで助かるとは』 安田理深述

 「信仰の反省ということも、反省して頼むということでなしに迴心懺悔する。罪悪深重ということは信ぜられた結果、本願に照らされた結果、南無阿弥陀仏が我々にたまわった結果が無限に反省させられる。宗教の問題が何であるかわからなかったそのために南無阿弥陀仏は生まれてきた、成就させられた。南無阿弥陀仏は助ける法が成就されたということ。助ける法が成就されたのもかかわらず、我々のお助けは南無阿弥陀仏に成就されているにもかかわらず助からずに居るというのは、我々の固執がそれだけ深い。うなづいて助かる法は、頼んで助かる法は成就しておるにもかかわらず、此方が頼まん。うなづかずに居る。それが我執である。助けんのでない、助からんのである。助からずにおるということが、それが法がはっきりせん迄は助からんのも御尤もということになるが、法が成就すれば仏の問題は終わったように見えるけれども、そこに助かる法が成就しても助からずにおるという我々の問題、我々の問題が新しく仏の問題になる。

 仏教の問題というのは、我々が助かるか助からんかという機の問題が中心問題になる。南無阿弥陀仏は信心の問題を飛び越えて他にゆくのでない。南無阿弥陀仏の中に我々が明らかにされてくる。帰ってくる所は南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏に腹がふくれる。本来ふくれるように出来ておるのに、ふくれずにおった、ふくれてみればやはり南無阿弥陀仏の中である。

 親鸞は難信ということをいっておられる。それはどういうことかといえば、往生成仏は我々の問題であるにもかかわらず我々を超えておる問題。往生成仏はそれこそ難中の難。こうもいえるけれども、一応はそうであるが、本願を頼めば本願自身がそれを解決しておる。本願によって往生成仏の問題が解決されるという、本願からいえば往生成仏は必ずしも難でない。我々が自力で解決しようとすると難であるが、本願を頼んで本願で解決されるというと必ずしも難でない。難は寧ろ頼むということにある。頼めん、それが難中の難。往生成仏は必ずしも難でない。信に往生成仏を解決して下さる本願に目覚めるということが難中の難。本願の中心問題は信心一つということになってくる。

 結局仏法の中心問題を煮つめた所は信の一念にある。けれどもそれは不可能ではない。難信というのは不可能ではない、容易でないということ。難信というのは信が信自身を知った場合いうこと。難信というのは信ずる心の自覚内容である。信じない心には難信もないし易信もない、難も易も信がなければない。心が信自身を難信と知る。それは我々にあるべからざるものが、我々にあるという驚き。信というものは絶対に我々から出て来ない。我々にあるのは固執。分別の固執しかない。それが我々の本質である。理屈なしに本願を頼むというのは我々の心でない。我々の心でないというのは如来の心。信心というのは如来の心。如来の心をたまわる。如来の心に感動する心、感動すれば感動した心が如来の心である。そういう我々でない心が我々に起きた。我々に起きたものが我々の心でない、あるべからざるものがここにある。あるべからざるものという意味で、我々にあるものは分別の心しかない、そういうないという自己否定の懺悔を通して、そこに我々でない心がある。こういうのが難という。ただ困難という意味でない。かたじけないという意味をもったのを難信。つまり我々の固執というもので磨かれた仏の心、それが信心。固執を懺悔して仏の心に目覚める。固執を止めてでない。止められん固執というものの自覚を通して本願が自覚されて来る。そういう所に難信という言葉の深い意味があるのでないか。

 我々のうなづかん心から仏の心が磨き出される。我々のうなづかん心は懺悔であると共に、其うなづかん心というものをくぐって磨かれた仏の心をたまわる。ご苦労は仏にある。仏にあるというと神話的になるが、寧ろ信心にある。信心自身がご苦労しておる。我々の長い間の固執の下にあって、固執によって磨かれてきた。如来のご苦労というけれど信心の苦労である。我々の固執は信心を苦労させて来た。不可思議兆載永劫の苦労を経て来たのが信心である。我々の本当の心、それが又如来の心そのものである。如来が何所かにあって苦労されたというのでない。如来がうなづかん我々と結びつく所に如来のご苦労というものがある。我々と無関係に法蔵菩薩のご苦労があったのでない、如来と我々と結びつく所にご苦労がある。如来が我々と流転の運命を共にせられて、仏の心を成就する歴史とせられた。其歴史が成就したということが我々にとっては時機当来。時機当来してそれに目覚めるということが生まれて来た。容易ならん歴史に対する感動は難信。

 信仰と言いのは歴史的なものであって、ただ個人的思いには歴史はない。南無阿弥陀仏の中に南無阿弥陀仏の心。如来の心は南無阿弥陀仏の中に表現されておる。南無阿弥陀仏はそういう深い如来の心の名乗りであるし、又名乗りを通して、深いお心に対する感動である。我々の信心というものも、信心の自覚というものも本願の名乗りに対する感動共鳴である。本願に共鳴すれば共鳴した心が本願。其本願の心に立つならば、人間の罪悪流転を恐れぬ。如何に強い憍慢邪智も妨げることは出来ない。憍慢邪智を悲しむ心、憎む心よりももっと深い心、それが水のような非常に静かな如来の痛み。それに感動する。深い静かな心に感動する。感動したといっても、涙を流すよりも更に深いしずかな心である。 (完)

 あとがき 

 昭和四十六年は主人の身体も支障なく過すことが出来、病状も固定してきたのでないかと思い深く感謝しております。しかし前のように彼方此方と出かけて皆様にお会いするのは何時のことか、七十一という年齢もありとても元のようにという訳には参るまいと思います。私も今は看病からもほぼ解放されましたのと、先日或老人からの問に対して主人の話しましたのを書き取り清書して送りましたが大変感銘を受けましたので、、主人の参る代りにプリントしてお手許にお届けしたいと思いましたのが、この 「下総たより」 を出す動機でございます。 

 曽我先生追弔会の講話は去る十一月廿日金蔵寺で話しました内の一部を訓覇様の許可を頂きのせることが出来ました。話のままで而も要領筆記のようなことで間違いがあればひとえに私の責任でございます。

 このたよりは二ヶ月に一度位、日常の間に私一人聞くのは惜しいと思われるもの、或は講義の中で書留め得られたものをまとめてみたいと思っております。次号も御希望ならば其旨是非御申お越し下さい。          安田 梅 」

 あとがきに安田先生の奥様が書き留められました文章も記しました。 以上無断書き込みで全責任は書き込み者である 河内 勉(釈 誓喚)の責任であります。関係各位には大変ご迷惑をおかけいたしますが、後学相続の為にお許しをお願いいたします。お叱りは anjali.tutomu@tune.ocn.ne.jp  までお寄せ下さい。

 次回は「下総たより」第二号 「感の教学」 を配信する予定でおります。


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑲)  

2012-02-18 23:57:01 | 心の構造について

 末那識をずっと読ませていただいているのですが、心の奥深く潜む自己執着心ですね。特に今日は考えさせられました。今日は週末でしたが仕事がつまっていて出勤しました。朝の9時ごろでしたが家内から、「叔母さんが亡くなったという電話が老人ホームからあって、今ホームにきているが、叔母さんは突然死の為に鶴見警察が検視をするという。警察官からあんたでは駄目といわれ、私は一体何という感じをもっているよ。」と電話がありました。法定立会人でないと駄目だそうです。しかし、法律の壁があるのかもしれませんが、家内はずっと叔母さんの面倒をみてきたんです。毎週毎週寒い日も、暑い日も、雨の日も、風の日もですね。車椅子に乗せて病院に連れていってたんですね。30歳の時、父の弟と結婚し55年になるのです。叔父は一昨年に亡くなり、それ以来老人ホームにお世話になっているのでした。「嫁いだら嫁ぎ先の人になるのだよ」といって送り出されたのでしょうし、「嫁いできたらここの人になりなさい」といわれていたのでしょうが、血縁関係とは意識の底で並々ならぬものがあるのでしょうね。家内には自分の思いが通じていなかったというショックですね。自分の思いですね。自分の思いが優先して、優先順位に従って判断を下していたのでした。そんな話を聞いている私は私の思いで聞いているわけです。それでも、法律の壁は冷たいですね。結局叔母さんは叔母さんの兄弟で葬儀を執り行われることになりました。しかしですね、私たちはどっかで妥協点を見出して、真実の自己を覆い蔽しているのでしょうね。自分の思いは正しいという所を捜しているのでしょう。それが末那識の正体ですね。

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。」(『教行信証』信巻、真聖p215)

              ―      ・      ―

 「此れより下は前の法執の位を広ずるなり。中に三有り。初は総じて一切の唯だ法執のみある位を広ず。次は更に重ねて八地以上を諍へり。後は法執の染不染の義を弁ず。」(『述記』)

 (此れより下の科段は、第二の位である、法我見と相応する末那識について重ねて説明する。これが三つに分かれる。初は、法執のみ存在する位を説明し、次に八地以上の三位について説明する。後は法執の染・不染の意味を説明する。)

 最初は、我執を伏する位について説明される。

 「二乗の有学の聖道と滅定との現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位にあるときと、有学の漸悟の生空智果の現在前する時とには、皆、唯だ法執のみを起こせり。我執には已に伏せるが故に。」(『論』第五・七右)

 (二乗の有学の聖道と、滅尽定の現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位にある時と、有学の漸悟の生空智とその果の現在前する時とには、みなただ法執のみを起こすのである。何故ならその位には、我執はすでに伏せられているからである。)

 第二の法我見と相応する末那識について重ねて説明がなされるわけですが、前にも説明されていましたように、法我見相応位とは、第七識が第八異熟識を縁じて法我執を起こす位です。この意味するところは、第一の補特伽羅我見相応位は必ずこの法我見相応位を前提とするけれども、法我見相応位は必ずしも補特伽羅我見を前提としないという、と。具体的には一切異生と一切の二乗、すなわち有学・無学を問わずその全と、及び菩薩の法空智とその果の起こらない位である、と説明がありました。この科段においては、我執が伏されている場合、法執とのみ相応する末那識を述べています。「我執には已に伏せる」といわれるように、我執がすでに伏せられている時には、法執のみが末那識と相応する。その相応する位はどのような場合かを述べているのですね。二乗の有学の聖道と、滅尽定の現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位にある時と、有学の漸悟の生空智とその果の現在前する時とには我執をすでに伏しているので唯だ法執のみが有る、と。この位は我執はすでに伏しているが、法執は、まだ伏しも断じもしていないので、法執のみを起こすと説かれているのである。 (続く)


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑱)  

2012-02-17 22:01:41 | 心の構造について

   第七末那識は第八阿頼耶識の見分を縁じて自の内我と為す。我そのものとなす。我所を許さないのが護法の見解です。そして四種を除いた「瞋」・「疑」は他に対するもので、自に対するものではありません。第七末那識は自分に対して瞋りを持つことはないのですね。自分に対する深い愛着が性ですから、同時に自分を憎むということは成り立たないのです。ですから自分に対して疑いを持つこともありません。これが問題ですね。反省という言葉がありますが、我見によって執着された我をたのみ、愛着するところには反省は成り立たないのです。また自分から出る一切の出来事は我執に色づけされているのですから正見というわけにはいきません。あとは悪見の中の辺執見・邪見・見取見・戒禁取見です。薩伽耶見(我見)は倶生起の煩悩で、邪見・見取見・戒禁取見は分別起の煩悩ですね。「取」が特徴です。認識したり、考えたりするひとつの見解です。偏った見解ですね。邪見は因果の道理を否定するわけです。空を否定しようとする見方です。見取見は自分の見解が正しいと思い込んでいる見方です。戒禁取見は戒律のみが正しい生き方と思い込んでしまう見方ですね。いずれも我見から生じた分別起の煩悩です。我見から生じたものであるから簡ばれるのですが、辺執見と我所見はどうなのでしょうか。この二つの見は分別起の場合もあるが、倶生起の場合もあるのです。しかしこの場合は我見を前提として成り立っているので簡ばれるのです。また辺執見は極端に考える見解ですから、有る場合(常見)と無い場合(断見)とがあるという見方になります。我所見が成り立つのは我そのものが前提となります。我がなければ我所は成り立たないのです。我に対して対象化されたものが我所です。従って、我見を前提として他の見が成り立つわけですから、「我見あるが故に余の見生ぜず」と。我見の中に他の四つの煩悩、辺執見・邪見・見取見・戒禁取見は含まれるので、今は第七末那識に働く根本煩悩は四つ、我癡・我見・我慢・我愛であり、「無始よりこのかた未転依に至るまでこの第七末那識は任運に第八阿頼耶識を縁じて四の煩悩と相応する」といわれているわけです。

               ―       ・      ―

 今、ここで問題とされていることは、我法の二の見ですが、人執も法執も我見の働きであり、その働きの相違であって、両者は別々のものではないと説かれているのです。

 「我と法とは用は別なれども慧の体は是れ一なり。同一種より生ずるを以て理に違すること無し。一の眼識が青・黄の両境を縁じて、二の行相生ずるが如し。然るに今此れが中には兩の境に兩の行ある共許の識を以て、不共の執心に喩せり。然るに今の所執は是れ二の境には非ず(一境の体分なり)。一心の中に二の境に於て二の行の執を起こすこと無きが故に。」(『述記』第五末・七右)

 喩えば、一の眼識が或る時は青の境を縁じて青の行相を生じ、また或る時は黄の境を縁じて黄の行相を生ずるようなものである、と。兩の境に兩の行相がある共許の識を以て不共の執心を喩えているのです。 

 「問、若し爾らば前に言はく、理を疑うときは事を印すと云えり。豈に二の行境とに非ずや。(答) 彼は執に非ずと雖も行相は別なるが故に。執は則ち然らず。推求するを以ての故に。竪着するを以ての故に。境も行も別なるは亦倶起せず。今此れは違せざるが故に倶起すと許す。即ち是れは前の初の人執の位を広ずるなり。」(『述記』) 

 


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑰)  

2012-02-16 23:07:20 | 心の構造について

 煩悩についてはカテゴリの「煩悩」の項を参考にしてください。

             ―       ・       ―

 「心の領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の六つの差異(六道)があり、また涅槃を得るということもある。・・・もろもろの存在は蔵(アーラヤ)によって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識(情報の集積体)であるゆえに、アーラヤと名づける。・・・すべての生命あるものの汚染された存在情態(法)は、この中に隠し蔵されて結果となるからである。また、この識はもろもろの存在の中に隠し蔵されて原因となるからである。また、さらに、もろもろの生命あるものは、この識を蔵し、それに対して実体的存在(我)という様相を見るので、アーラヤ識と名づける。・・・またアーダーナ(執持識)とよぶ。すべての現象している諸器官を執着・維持し、すべての生を受けるときの執着の根拠となるからである。・・・あるいは「心」と呼ぶこともある。「心・意・識」と言うとうりである。「意」には二種類ある。一つは、・・・識の発生する根拠なので「意」とする。二つめは、汚染された「意」で、常に四つの根本的な煩悩を伴っている。それは、身見(我見)・我慢・我愛・我癡(無明)である。この識は他の煩悩の発生源(依止)である。…外界を対象化し、それにしたがって順序の分別的認識をするようになるので、この二つを「意」と名づける・・・この心は汚染されているので有覆無記である。常に四つの惑いを伴っている。・・・」(『摂大乗論』応知依止勝相ー(訳)コスモスライブラリー摂大乗論現代語訳P38~46) 

             ―       ・       ―

 我執・法執の問題ですが、曇鸞大師は『論註』において自問自答されていますね。八番問答において、五逆と謗法とはどちらが罪が重いのかを問われているのです。この問題は『自己に背くもの』(安田理深述)に詳細が記されていますので、参照してください。 

 この問題は親鸞聖人も『教行信証』信巻において引用され、信心の問題として取り上げられています。世間での最も重い罪は五逆罪です。五逆罪は母を殺すこと、父を殺すこと、聖者(阿羅漢)を殺すこと、仏の身体を傷つけて出血させること、教団の和合を破壊し、分裂させること、という罪です。しかし五逆罪は何に由って成り立つのかというと、謗法によるといわれています。謗法によって五逆罪は成り立つのだ、と。謗法は仏智疑惑ですね。本願を疑うことが罪だということです。五逆罪は我執によって成り立つと思っているのですが、実は我執を成り立たしめているのが法執なのですね。社会問題で見ますと、最近最も注目され連日報道されている問題があります。芸人の中島さんです。占い師にマインドコントロールされているのではないかという問題です。いろんな条件が重なって起きている事件でしょうが、根底にあるのは自分を疑っているという問題です。我執によって引き起こされている依存症ですね。依存することによって自分が有るという執着が占い師を実体化しているのではないでしょうか。実体化して、それに縛られて苦しんでおられるのが今の中島さんではないかと思うのです。占い師は幻であり、問題は自分にあると気づかれればいいと思いますが。中島さんの心の叫びを聞いてあげられる人が側におられるといいのですがね。占い師を責めても駄目ですね。社会問題の一つとしては解決されるかもしれませんが、中島さんの心の悲鳴は解決されません。中島さんと共に苦しみを共有されるサポートの人が必要になりますね。

             ―       ・       ― 

 二は、用と体との同別を説明する。(体と用との同別を顕す)

 「我法の二の見は、用は別なること有りと雖も、而も相違せず、同じく一の慧に依る。眼識等の体は是れ一なりと雖も、而も青等を了別する多くの用有って、相違せざるが如くなるが故に。此れも亦然るべし。」(『論』第五・七右)

 (我・法の二つの見は、作用は別々であることがあっても、相違するものではない。同じく一つの慧によるのである。これは眼識等の体は、一つであるといっても、青等を了別する多くの作用が有って相違しないということと同じである。従って、これも亦同じである。)

 「我と法とは用は別なれども慧の体は是れ一なり。」と。我見と法見は、法の用に迷う(我見)のと、法の体に迷う(法見)という相違にすぎず、我見も法見も、一つの慧の作用の働きの相違であって、共に慧を体とするから二執は倶起することが出来るのである、と説明されます。

 ここに「見」というのは、人執(我執)も法執も、我見(薩伽耶見)の働きであり、その働き方の相違であるという。我見が法の作用に迷う場合を人執といい、法の体に迷う場合を法執というのであって、この二の見は別々のものではなく、同じく一つの慧の作用の働きである、と述べています。喩をあげて説明されます。このことについては明日述べてみたいと思います。 (つづく)

    


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑯)  

2012-02-15 23:25:26 | 心の構造について

 重ねて、補特伽羅我見相応位を述べる。『述記』・『演秘』の説明。

 「述して曰く、自下は第二に重ねて前位を明かす。文に其の二有り。唯だ初の二のみを廣ずるが故に。初に廣ずるに二有り。初に二執の寛・狭を明かし、後には用と体との同別を明かす。此れは初なり。今は初の位は必ず後の位を帯することを顕す。初は短きを以ての故に。人我の位には必ず法我有り。人我は必ず法我に依って起こるが故に。人我と云うは是れ主宰作者等の用あるが故に、法我と云うは自性勝用の等き有るが故なり。即ち法我は通じ人我は狭きなり。人の要ず杌に迷って是れ杌等なりと知らずして、方に執して人と為して杌に迷うを先と為して後に方に人と云うことを起こすが如く、此の中の喩況に理に浅深有り。浅喩と云うは人なりと謂う是れ人執なり。杌に迷うは是れ法執なり。深喩と云うは即ち杌に迷うは是れ法空に迷うなり。人と謂うは是れ人執を起こすなり。法の中には理に迷ずるに拠ると云う。人の中には、事(人)執を起こすを云うにおいて、

 問、人の中にも亦(人空の)理に迷うと言うべし。法の中にも事(法)執を起こすべし。

 答、しからず、人は狭く法は寛し。法を以て本と為すが故に。

 浅喩を難じて云く、若し是れ杌なりと執して(法執)、即ち人と執せば、杌と執するを以て是れ法執ならしむべけれども、既に杌に迷うて人を起こすと言う。杌に迷うは是れ法執には非ざるべし。

 答、しからず、迷とは不了なり。杌と了せざる時には法執に似たり。是れ実の杌と執するを方に不了と為すと謂うには非ず。

 問、若し、杌と了せずんば疑と何ぞ別なる。

 答、彼は猶予するが故に。此れは決定せるが故に。決定して杌に迷うて遂に是れ人なりと執す、故に是れ法執なりと云えり。

 問、如何に二の執倶起することを得る耶。」 (『述記』第五末・六右)

              ―       ・      ―

 「疏に、「深喩というより人の中には事執を起こすというにおいて」 に至るは、法空の理は深なり。斯の至理に迷うを名づけて深と為すなり。

 問、人と謂うは是れ人執なり。浅喩と竟に何の別かある耶。

 答、杌に迷うに拠りて分かちて浅と深とを成ず。

 問、人と謂うに設い生空の理に迷するに喩えて深と名づくれども何の失かある。

 答、意我と法と相依して起こり、寛狭等しからざることを明かす。事(人)理(迷杌)相託す、故に之を喩せず。」 (『演秘』第四末・二十九左)

 (疏。深喩至人中起事執者。法空理深迷斯至理名爲深也 問謂人是人執。而與淺喩竟何別耶 答據迷於杌分成淺深 問謂人設喩迷生空理名深何失 答意明我・法相依而起寛狹不等。事理相託故不喩之。― 大正43・903c) 

 「人執法執というが、どちらも我であるが、法執はもっと深い我執である。しかし、これは痛くもかゆくもないものである。人執によって煩悩障が成り立ち、法執によって所知障が成り立つといわれる。煩悩というのは煩は擾、悩は乱、衆生を擾乱(じょうらん)するものである。悩ましているものが煩悩であるから、人執は痛いものである。だから、煩悩が即ち障である。所知障は所知が障りではなく、所知の境を蔽うて、正しい智慧の起こるのを障えている。これは痛くないものである。・・・・・・人執から更に法執を考えるのは、人執をこえて人執を基礎づけるような、更に深い我執を考えていったのである。無我の智は、更に深い我執の自覚を通して触れるものである。我執の自覚無くして無我には触れえない。どこまでも人法二執の区別、またどこまでも我執の終わりをつきつめて、無我の初めに触れる。それが自覚というものであるが、こういうことで汎神論と区別される。」(安田理深師)


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑮)  

2012-02-14 22:37:19 | 心の構造について

 「問う、二執は倶起す、何が故に分位の前後不同なるや。初に前の人執を廣くとく。」(『述記』)

 (我執(人執)と法執は必ず倶起する。第一の位、補特伽羅我見と相応する末那識について重ねて説明する。初に二執の寛狭について説明し、後に用と体との同別を説明する。此れは初の文である。)

 「補特伽羅我見の起る位には、彼の法我見も亦必ず現前す。我執は必ず法執に依りて起こるを以て、要ず杌(くい)等に迷うて方に人等と謂うが如くなるが故に。」(『論』第五・六右)

 (補特伽羅我見の起こる位には、彼の法我見も必ず現前する。何故なら、我執は、必ず法執によって起こるものである。例えば、杌等に迷ってまさに人等というようなものである。)

 「人我の位には必ず法我有り。人我は必ず法我に依って起こるが故に人我と云う。」(『述記』)と説明されています。即ち、法執によって我執が起こるのである。我執が起こっていると云うことは、その前提として法執があるということです。我執が断たれても、法執は残るということになります。例として「杌等に迷ってまさに人等というようなものである。」と述べられていますが、杌等を実体として存在すると執着することを法執といいます。その上にその杌等を人と錯誤して、人であると執着している状態が我執です。我執が起こる前提として、その根底には杌等を実体として存在しているという執着があるわけです。『述記』にはこの喩には浅喩と深喩があると述べられています。これによれば、人であると思うのは人執であり、杌に迷うのは法執である、と。そして杌に迷うのは即ち法執に迷うのであり、人と思うのは即ち人執に迷っているのである、と。「法空の理は深なり」と説明され、杌等に迷うことは法空の理に迷うことと説明されます。

 「迷法空方執法有依此法有力方起我執。乃至執仏性為我亦執法有体依此作用上方起我執。」(『義演』巻八・卍続79・1・135・左下)

 (法空に迷えば、方に法有に執し、此の法有の力に依って、方に我執を起こす。乃至、仏性に執し我と為す。亦法体有りと執し、この作用の上に依って方に我執を起こす。)

 法空に迷えば、必ず法有に執着し、その法有に執着する力に依って我執を起こす、と。また、仏性に執着して、これを我と為し、法有の体を実体視して迷い、その作用の上に我執を起こすのである、と説明されます。

 「二執の寛狭」について「法我は通じ、人我は狭きなり」と説明されています。即ち、人執は法執を前提として起こるので法執の方が寛く、人執の方が狭いということを述べているのです。    (つづく) 明日は『述記』と『演秘』の説明を伺います。

 


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑭)

2012-02-13 22:20:33 | 心の構造について

 「平等性智と相応する末那識は、無垢の識と異熟との識等を縁じて、平等性智を起こす。」 について『演秘』と『樞要』の説明をみますと、

 「『疏』に「或第八未捨名と云うより此解難知」に至るは、執蔵の疑を以て正しく頼耶と名づく。平等(智)は執に非ざる故に、所縁の八は何ぞ頼耶と名づけん。

 『疏』に「既無能蔵蔵義応暫捨」と云うは、此れ乃ち前の知り難き意をくんで難ず。若し能蔵無くんば所縁の第八を頼耶と名づけず。既に能蔵無し頼耶を捨すべし。此の難の意を答することは初位(『疏』五末・二左・「八拠永捨」の文))に弁ずるが如し。故に重ねて云わず。詳らかにして曰く、頼耶の名既に未だ捨せざれば縁ずと許すに何の失あらん。若し要ず執を起こさば方に頼耶と名づく、既に執せざる時は名は何んぞ捨せざる。此の理に由って論ぜば縁ずと許すに咎無し。」(『演秘』第四末・二十九右)

 「差別の三中に心を以て境に対す。境に三位有り。謂く我愛執蔵の位等なり。心に又三あり。一に補特伽羅執の位を染末那と名け、二に法執位を不染末那と名け、三に思量の位を但だ末那と名づく。前の三境と相応して、寛ならず、狭ならず。今は第三を平智と名づく。思量の位と説かざることは、今第七は二の位別有りと云うことを顕す。一に有漏、二に無漏なり。無漏は無別と云う。有漏の位の中には、有染不染と復た分ちて三と為り、又前の三の位には、心と境相応すと雖も、而も境の中に無垢をべつに明かし顕さず。今彼の境に対するに寛狭不同なりと雖も、無漏の義等きが故に。平智と説て末那と説かず。謂く本識の名に准ぜば亦応に四有るべし。此に思量を加う。彼の執持に対する故に。彼に若し但だ異熟と無垢と二の名を説かば此は但だ無覆平等智と名づく。彼は但だ執持と名けば此れ亦但だ末那と名づく。倶に染浄の故に、今此こには説別つが故に三の名有り。」(『樞要』巻下本・二十三右)

 以下、過去ログより 

 第八識の三相と三位について」玄奘法師が『成唯識論』を編纂するにあたり第八識の三位によって三名を立てたといわれています。これは自己の問題を明らかにする為なのです。主体の問題ですね。略説では第八識を異熟といわれていますが、広説では三つに開いています。ここが大事ですね。自相・果相・因相で顕されています。働きの違いによって分類されているのですね。自相は阿頼耶識と呼ばれています。これも三つに開いて、能蔵・所蔵・執蔵といわれています。能蔵とは能く一切の種子を執持する、種子を納め維持するはたらきがあるということ。所蔵は前七識によって種子が薫習されるところということ。そして執蔵です。執蔵が大事ですね。第七末那識が能動的に第八識に働きかけ第八識に我の虚像を描くのです。執着されるわけです。これが迷いを生み出す根源になるのです。第八識は元を質せば縁に依って生じたもので無我なのですが、第七識に依って染汚されている限り阿頼耶識と呼ばれるのです。我執がどのように動いているのか、またどのように生まれてくるのかというエゴイズムの構造を明らかにしているのです。非常に厳密ですね。我愛に依って執着され蔵せられているわけです。その我愛が現行(現在している)している限り阿頼耶識と名づけられるといわれています。存在(主体)は縁に依って生じ、縁に依って滅するものですが、私たちはそのまま縁起を受け止めることは出来ません、自分に執着していますからね。本来性を喪失しているのです。そこに真実と虚妄の狭間において苦悩するわけです。真実は見えないですから、見える虚妄を解決しようともがくわけです。外に因を見出し、外を変えることに於いて自らを満たそうと思うわけですが、苦悩する因は自らの中にあることに気づかずにいますから苦悩を解決することは出来ません。これは惑・業・苦の循環で譬えられます。私は苦悩する人生は「法に目覚めよ」という催促だと思うのです。第八識の自相を阿頼耶識といわれることは第七識が能動的に第八識の見分に働きかけ、第八識が愛着処となって執着され、今の自分を形成しているということに於いて我愛執蔵現行位(があいしゅうぞうげんぎょうい)といわれるのです。

 私が「今現在」しているのは善悪業の結果なのですね。自覚としてです。自覚を外してしまいますと運命論になります。父母を縁として生まれ、そしていま現に生きているということは、過去を背負っている存在ということになります。これを第八識では果相といい、異熟果です。それを善悪業果位と位置づけています。異熟という目覚めがありますから、身と処(環境)の問題は解決されるわけです。阿頼耶という意味がなくなった位になります。我執が意味を持たなくなりますから、菩薩位になります。次に因相なのですが三世でいうところの現在が因ということになります。未来をはらんだ現在ということです。「あまねく諸々の衆生とともに安楽国に往生せん」という、一切衆生とともにというスタンスが取られます。これを相続執持位といいます。如来の位になります。信心の問題で言いますと、信心は私の上に起こった出来事なのですが私が起こしたものではありませんね。信心は相続執持位と思うのですがね。信心は三世にまたがるわけでしょう。無始無終ですね。私にとっては信心を覆っている雲霧があるということになるわけでしょう。我執によって覆われているのというところに、二十願が見出されてきたと思うのです。これを第八識で言うと阿頼耶識といい、我愛現行執蔵位といっていいと思うのです。

 阿頼耶識の三位についてまとめてみますと、

  1. 我愛執蔵現行位ー菩薩の七地以前と二乗の有学、及び一切の異生にして第七識我執の現行する間を指します。この我執の現行する位にとりきめて第八識を阿頼耶と名づけるのです。
  2. 善悪業果位ー菩薩の第十地までと二乗の無学果の聖者と一切の異生との善悪業の果報としての第八識の相続する間をいいます。この位にとりきめて第八識をビパーカ(毘播迦)といい、異熟と名づけられます。佛果に至ればこの識は善無漏となり業所感の無記でありませんからこの名を失います。
  3. 相続執持位ーこれは一切の異生及び佛果に至るまで第八識中に種子を執受任持して失わず相続する位をいいます。因位にあっては漏・無漏の種子を執持し、果位にあっては無漏の種子を執持す。この位にとりきめてアーダーナ(阿陀那)と名づけられ、執持と訳されます。

 阿頼耶を以って主として第八識を呼びこの識の自体とするのは、それが初位の名であると共に我愛執蔵の過ちを明らかにすることにあります。聖道仏教の目的はこの我執の断除にありますから阿頼耶と名づけるのです。「この識の自相は分位多なりと雖も、蔵と云うは初めにして過重し、是の故に偏に説けり」(『成唯識論』ー『選註成唯識論』p30)、第八識は善または悪の業種子によりそって熟したものであり、我執の現行する位にとりきめて阿頼耶と名づけられるのです。第八識は唯所薫であって能薫ではないというところが大事ですね。阿頼耶識の三義に於ける執蔵ということは、末那識によって執着されることを(蔵する)という意味で分別をしないのが阿頼耶識であるということ。阿頼耶と云う意味はアーラヤ(経験のすべてを蓄える蔵)ということ。蔵するということを持って阿頼耶といい、阿頼耶は執着は起こさないということです、また執着と言う意味もないということになります。執着を起こすのは末那識ですね。「第七末那識というものがありまして、それによって意識全体がさまざまに汚されておるんだけれども、それに対して苦い顔をしないで、いつでもほがらかな心をもって、それを受け取っていく。これを阿頼耶識と言うんでしょう」(曽我量深師)「執を蓄えている」といっても、阿頼耶識そのものは末那識によって愛着処となり、我愛をいう種子を薫習しているわけで、これは純粋意識であると思うのです。「是無覆無記」であり「恒転如暴流」といわれているわけです。因縁正起です。法ですね。法は融通無碍でしょう。とどまることがないわけです。瞬時瞬時が新たなのです。末那識は固定してとどまるのです。いうなれば法に違反しているわけです。違反するとトラブルをおこしますね。そして違反しないように努力しますでしょう。このトラブルが私にとっては苦悩を生んでくるのです。我愛によって執着され現行している我が身に共に流転してくださる、それが法蔵菩薩ですね。「私と共に」と言うことにはどのような意味が有るのでしょうか。末那識は微細に働くと言われていますね。知らず知らずのうちに汚していくと言うことです。これは自分と他人とをはっきり簡びわけ、自分の得を簡びとるということが私の感知されないように水面下で働いているというのです。私は、「我が身は現に」という二種深信においてしか末那識は浮かび上がってこないと思うのです。「無有出離之縁」の自覚に於いてですね。「もう助かる縁がない」ところに法蔵菩薩出現の意味が有るのではないかと思うのです。「二河喩」における三定死ですね。「汝一心に正念にして直ちに来たれ」という分水嶺に法蔵菩薩は立っておられるのではないでしょうか。私と共に安危を共同する主体ですね。


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑬)

2012-02-12 19:06:23 | 心の構造について

 おことわり、『下総便り』の配信日ですが、難行の問題についての試行錯誤がつづいていますので、今日は予定を変更して昨日のつづきを書き込みます。

 難行道といわれる難の質。(5)

 「難行という問題は、人間存在とも関係してくると思うのです。人間存在は関係的存在であるといわれます。関係を断ち切っては生きていけない存在であるということですね。このことは歴史的存在であるともいえます。時と場所とを限定して、今、ここに、私として、すべてのものと繋がりを以て生かされて生きていると云うことなのでしょう。今日の毎日新聞の「悼む」欄に昨年他界されました広瀬先生の記事がでていました。その記事の中で広瀬先生はシベリヤ抑留の時の状況を生々しく語っておられます。少し抜粋しますと、「氷点下40度での重労働。飢えのあまり、日本人同士が食べ物を奪いあう。ある時、大事なパンを盗まれた。すでに僧籍にあった広瀬さんは 「よし、今度は俺が盗んでやる」 と思った。実際は盗めなかった。それでも 「私はが餓鬼道に落ちた。あの時、私の信仰は壊れてしまったんです」。と語っておいでになります。そして「人間を人間たらしめるものは何か」を考え抜いた。 「帰国して親鸞の教えにまじめに取り組むようになり」、信仰を再構築した。毎日新聞の記者である栗原俊雄さんの問に答えられたものです。非常に考えさせられる遺教です。そういえば、親鸞聖人は『歎異抄』第十三条において「故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。」(真聖p633)と語っておられます。人間とは業縁存在である、と。「業縁をもってのゆえにしばしば生死を受く」存在である、ということに自身の存在根拠を見ておいでになるのですね。難行という時には、この関係存在を断ち切らなければ成り立たないという質をもっているのです。関係存在である限り退転するのです。時代に翻弄されるということが起こってきます。事実あの戦時下にあって命を一番大切にしなかればならない各教団・教会が戦時教学を打ち立て戦争協力をしたという経緯があるからです。餓鬼道に落ち、畜生道を生き地獄絵図を描かなければ成らないというところに自身の根拠を置いた時、自己とは、「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」。と教えられるのではないでしょうか。

 『唯識論』においても、平等性智相応の末那識の存在が説かれています。「彼縁無垢異熟識等。起平等性智」(彼は、無垢と異熟との識等を縁じて、平等性智を起こす)と述べられています。安慧論師の説くように「三位に末那無し」という所論に対して、安慧の解釈は、末那識そのものの体もなくなり、浄位の末那識を認めないという立場になります。この立場ですと、染汚の末那識を断絶し、永断することにおいて不退転に住することになるのでしょうが、この論法は矛盾をきたすのですね。(詳細は『唯識に学ぶ』において掲載中です。)護法は安慧の説を論破し、浄位の末那識を認めているのです。このことは、染汚の末那識と浄位の末那識の二つが存在すると説いているわけではないと思うのです。有るのは言葉にすれば「法」です。法といっても実体的にあるわけではありません。法によって見出されてきたのが実体的な二執(我執・法執)ですね。染汚の末那識も見出されたものなのです。見出すということに於て、法は法自身の存在を証明しているのですね。私自身でいうと、苦悩する身の事実が法の働きであるということです。言葉に託して説かれるとですね。『大無量寿経』の法蔵菩薩です。法蔵菩薩の働きです。「安危同一」という働きですし、「恒」ということも、衆生と共に在る存在を言い表わしているのでしょうね。従って、菩薩の階位からいいますと、菩薩と仏の間に断絶があるのです。どうしても超えられない壁が立ちはだかっているのですね。七地沈空の難といわれているものです。龍樹菩薩も曇鸞大師も悩まれたのでしょうね。七地以前の菩薩が七地沈空の難を超えて仏果を得ることができるのか、と。この問が『浄土論註』を通して親鸞聖人は『教行信証』証巻において

 「すなわちかの仏を見れば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえに」とのたまえり。「平等法身」とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。(「寂滅平等」とはすなわちこの法身の菩薩の所証の)寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて「寂滅平等の法」とするなり」(真聖p285)

 と述べておられます。最初に戻りますと、易行道は難行道と対比するものではなく、難行道を成就する道、それが易行道といわれる仏道なのです。それ故、「易往無人の浄信」といわれるのです。『信巻』に

 「謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
 
この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく。また本願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり。
 
しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧の力に因るがゆえなり。」(真聖p211)

 易往無人の浄信であり、真実の信楽実に獲ること難し、といわれる信心なのです。「ただ念仏」といわれる所以も、念仏に何も付け加える必要がないということを表しているのです。そしてですね、何かを付け加えたいと思う心が『三十頌』に語られています。
本頌における末那識の定義を見てみますと、

             (第五頌~第七頌)

   頌曰     次第二能変  是識名末那

           依彼転縁彼  思量為性相  第五頌

           四煩悩常倶  謂我癡我見

           并我慢我愛  及余触等倶

           有覆無記摂  随所生所繋  第六頌

           阿羅漢滅定  出世道無有  第七頌

 ( 頌に曰く、次は第二の能変なり。是識をば末那(まな)と名けたり。彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。四の煩悩と常に倶なり。謂く我癡と我見と、並びに我慢と我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記(うぶくむき)に摂む。所生(しょしょう)に随って繋(けい)せらる。阿羅漢(あらかん)と滅定と、出世道とには有ること無し。)

 阿頼耶識の上に末那識が語られるのですね。自己中心的な活動しか出来ない存在として末那識が考えられています。無意識というより、何も考えない即座にですね、恒に(我)を審らかに思い量っているのです。しかしその思量する底に流れているのが平等性智相応の末那識なのですね。その時に阿頼耶識は命を支えていく、相続していく浄位の働きをしているのです。命は支えられて存在するということは浄位の阿頼耶識が働いているということの他にありません。その時に末那識は平等性智相応という働きをするのです。

 私たちは生まれた瞬間から分別をもって産み出されています。ですから分別を知らしめることを通してしか平等性智の存在を証明するしかないのですね。分別心を通して仏道は開かれているのですね。迷いから悟りに向かうのではないのです。このことをはっきりと言い表わしている経典が『大無量寿経』なのですね。ここをもって、親鸞聖人は『真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」 その理由は、「この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施すことをいたす。・・・・・ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。」(真聖p152)と宣言されているのです。このことが大乗至極と言われ、浄土の真宗今盛んなり、といわれる所以なのです。

          (完) 明日より、唯識に戻ります。


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(37) 分位行相(⑫)

2012-02-11 22:09:30 | 心の構造について

 難行道といわれる難の質。(4)

 難行道とは、曇鸞大師によりますと、「難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。」といわれ、親鸞聖人は『教行信証』化身土・本に於いて「如来懸に末代罪濁の凡夫を知ろしめす。立相住心なお得ることあたわじと。いかに況や相を離れて事を求むるは、術通なき人の、空に居て舎を立てんがごときなり」(定善義)と言えり。「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。おおよそ一代の教について、この界の中にして入聖得果するを「聖道門」と名づく、「難行道」と云えり。」と、難行道は「今の時」は「五濁悪世」であり、「行を起こし道と修せんに未だ一人も得る者有らず。」といわれるわけです。法然上人は『選択集』に於て、「凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとえば猿猴の枝につたふがごとし、まことに散乱して、動じやすく、一心しづまりがたし。無漏の正智、なにによりてかおこらんや。若無漏の智剣なくばいかでか、悪業煩悩のきづなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を、解脱することをえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず。」という「生死繋縛の身」であるという自身の姿を見出されたのではなかったでしょうか。「かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん」という言葉に法然上人の一途さを伺うことができます。もはや伝統教団の修道に身をおいておくことはできないという、聖道仏教との決別を意味しているのです。その決別を決断させたのが善導の教示であったのですね。法然上人までの浄土教というのは天台や真言の聖道仏教の陰に隠れてひそかに極楽浄土に往生することを願うものであったのです。法然上人はこの聖道仏教によって本当に生死を解脱することができるのかというという問いをもたれたのでしょう。これは釈尊が「私が苦しんだり悩むのはなぜか」という問いをもたれたのと同質であろうと思います。この問いはすべての人が持っている根源のものでしょう。ここに法然上人の心の葛藤が浄土教を陽のあたる場所におしあげてきた原動力があるのではないでしょうか。   
法然上人の課題はひとえに生死解脱にあったのです。そのことは『選択集』を結ぶにあたって『選択集』の要約を八十一字を持って示されています。
 「夫速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門、選入浄土門。(それ速やかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(さいお)いて、浄土門に選入すべし。) 欲入浄土門、正・雑二行中、且抛諸雑行、選應帰正行。  (浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行の中に、しばらく諸の雑行を抛(なげす)てて。選びて正行に帰すべし。) 欲修於正行、正・助二業中、猶傍於助業、選應正定。 (正行を修せんと欲はば、正・助二業の中に、猶助業を傍らにして選びて正を専らにすべし。) 正定之業者、即是称仏名。称名必得生、依仏本願故。 (正定の業は即ち是れ仏の名を称するなり。称名は必ず生を得。仏の本願に依るが故なり。) (真聖全一P990)
 人間の課題は、ゆうなれば「夫速欲離生死」しかないのではないですか。「生きることが」問いとしてわが身に迫ってきたとき「悠長なこと」は言っておれないのではないでしょうか。生きている時は『今』しかないのですから。「速」はどのようにしたら成り立つのかが最大の課題であったのでしょう。ここにも「難」は「今」を失するということが明らかになります。問いとしてあるのは唯一つ、「速やかに生死を離れる」ということでしょう。生死を離れるという問いを遮るものが「貪愛瞋憎雲霧」でした。「恒審思量」といわれる末那識の存在です。どこまでいっても、恒に審らかに自分を思い、自分の都合に合わせて、自分にとって利益のあるように思い量る、自分の深層に横たわる働きがあるということです。価値判断のすべてが自分の基準にあわせているということです。我執であり、我所執であるわけです。我執を破ったといった時に、またその底に末那識が働いているのです。「わかった」ということは解脱の実体化です。その実体化を否定するのが人・法二空なのですね。自分からは難の質を超えることが出来ないということなのです。すでにですね、私が苦しみ、悩んでいるということは、苦悩が与えられていることなのです。真実に出会っている証拠なのです。真実に出会っているからこそ私たちは苦悩しているのです。真実こそ如来回向に他なりません。

 『法然上人行状絵図』に上人の「出離生死」の原点がとどめられています。それは1141年(永治二年)所領の争いで夜襲をうけ亡くなっていく父時国の遺言でした。「汝さらに会稽(かいけいー敗北の恥を晴らすこと。)耻をおもひ、敵人(あたびと)をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ、いゑを出で、我菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求には。といひて端坐して西にむかひ、合掌して仏を念じ眠がごとくして息絶にけり。」この出来事が上人の生涯を貫いての課題となり「ただ念仏」の道を歩まれることになるのです。法然上人は「偏依善導」といわれますように善導の『観経疏』に耳を傾けられたのですが、その中に「門八万四千に余れり。・・・縁に随う者は則ち解脱を蒙る。」(真聖p340-玄義分・序題門)ここに問題が一つありますね。どの道でもよいのかと云うことです。どの道を歩んでも解脱を蒙ることであるならば、何故に浄土の教えなのかということです。善導は「然るに衆生障り重くして、悟りを取るの者明らめ難し。」といわれ、また『観経』に苦悩は「無量億劫の極重の悪業」(真聖p100)であり、その為に苦悩を除くのではなく、苦悩を除く法を説くので有るといわれているのです。根源的な無始無終の罪といっていいのでしょうか。あくまでも自覚の話ですが。この罪業も如来に言い当てられて初めて自覚できるのですね。如来も衆生も一如来生なのですね。自覚は表は罪業の自覚であり、裏は救済の事実なのです。親鸞聖人はこの問題について善導の教えを身に受け「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」といわれました。「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかって開けず」というわけです。「余」はすなわち本願一乗海なり。」(真聖P341-化身土・本)と教えてくださいました。本願一乗海のみが「在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。」なのですね。悲引というところに「本願の嘉号をもって己が善根とするがうゆえに、信を生ずることあたわず・・・」という自己への眼差しがあるのではないでしょうか。その眼差しが悲引を引き出してくるのだと思います。唯識で言われる倶生我執の自覚です。「救われる縁もゆかりもない身」の自覚が、無根の信をいただくことになるのです。「難」という問題は我執の矢が折れないということです。どこまでも「我思うが故に我有り」なのでしょうね。

 苦悩するということは、どのような意味があるのか、『観経』から教えられますのは、苦悩は仏教に遇うことに依って初めて具体化するということなのです。苦悩は人間としての根源の問いなのでした。それは仏法に依って明らかにされたのです。仏法に依ることがなかったなら、私たちは自分の問題を他の問題にすり替えて解決しょうとするのです。それしかできないのですね。これは逃避だと教えられるのですね。自分からの逃避だと。本当に苦悩するということは逃げようにも逃げられない立場に立って、「自己とは何ぞや」という人生の根源的な問いを明らかにする道であるということなのです。だから仏教に出遇うことがなかったなら、本当に苦悩することは成り立たないのかもしれないですね。自分の立場に立ちますから、仏教をも利用しますね。「苦しい時の神・仏頼み」です。ここで言われる「苦しい」は厳密には「困った時の」でしょうね。日常の立場からは苦悩はないのでしょうね。苦悩とは言われないのでしょう。「法」に出遇う事がない限り、苦悩が「有る」・「無い」は有無の見ですね。有無の見を破すのが仏教でしょう。そこで謬りをおこすのですね。それが苦悩だと思うのですが。念仏に遇って念仏に謬りを起こすわけです。二十願の問題ですね。しかし法は因果同時なのです。悟りの世界を蓮華蔵世界といいますね。蓮華と云う譬を以って法に出遇うことが救いであることを顕しているのです。蓮華はプンダリーカといい、華と実が同時になるのです。『華厳経』や『法華経』はその意味を持って経の主題としています。『観経』第七華座には法蔵菩薩の本願力は「華の上に自然に七宝の果有り」といわれるのですね。法に遇うことに依って苦を厭い、浄を求めるのでしょう。厭うことと浄を求めることが同時なのですね。「此の如きの妙華は、是れ本法蔵比丘の願力の所成なり」といわれていま。苦悩そのものが本願の正機となるのですね。そして苦悩を知らせることが本願成就の証明になるわけですね。ここに「除苦悩法」を顕しているですね。信心の純・不純もここで明らかになるのです。私たちは普通、苦しみ悩むことは他から生まれてくると思っています。ですから、「他」を変えることに奔走しているわけです。私を取り巻く環境ですね。それが私を束縛して私の自由を奪っているのだと思って、苦しみ悩んでいるわけです。自分自身に罪が有るとは誰も思ってはいません。ですから自分が苦悩しているとは思わないのです。苦悩は有るんですけれども、自分が作り出しているとは思わないのですね。いつも、誰かの仕業であり、物が悪いのです。物には感情は無いのですが、物に当たります。感情が昂ぶりますと八つ当たりしますからね。このようなことで、私たちは「他」を自分の都合のよい方に変えることに依って満足をしようと思っているのです。歴史はそれを物語っていますね。いまだかって満足をしたことがありませんからね。でもね、時に「これでいいのか」という疑問が沸いてくることがあります。これが縁になり教法を聞く、聴聞することが起こってまいります。『観経』に即していいますと韋提希の愚痴です。「世尊、我宿何の罪ありてか此の悪子を生める。世尊、復何等の因縁有りてか提婆達多と共に眷属為る」と。世尊に向かって愚痴をこぼしているのですね。「仏の為に礼を作して」といわれていますから、韋提希は仏をもとめたのです。苦を厭う為にですね。にも拘らずですね、自分自身の問題とは見ていないのです。「何の罪があって苦しむのか」というわけです。ここに、我執の深いことをしらないという問題が浮き彫りにされています。ここに、教法に遇うということの大切さが知られるのですね。仏法に遇うことに於いて、愚痴が・苦悩が苦を厭う縁になるのです。この縁が、人間を根源から解放する、天命に安んじることができる道へのプロローグになるのですね。仏法に遇うということは、反面苦悩の深さを知ることになり、いよいよ苦悩にさいなまれることにもなるのではないかと思います。本当に苦悩することになり「苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣う」ことにつながってくるのです。仏法は「苦悩を除く」ものではなく「苦悩を除く法」なのですね。苦悩の解決は苦悩がなくなることではないのです。「苦悩を除く」ということであれば、それはエゴでしょう。我が身勝手というものです。苦悩が邪魔にならないということが「除く法」ということでしょう。苦悩を引き受けて生涯を尽くしていけるという、「信心」を得るということになるのではないでしょうか。逆に言うとですね。信心を得ることに於いて初めて苦悩することが出来るのでしょう。仏教は何を私たちに伝えているのでしょうか。「観経」第七華座観に「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解脱したまうべし。」と。このお心を「安心決定鈔」に「如来浄華衆 正覚花化生」を釈して「法蔵菩薩の・・・心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観には、除苦悩法ととき、・・・凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。・・・」(真聖P952)また、「斎しく苦悩の群萌を救済し」(総序)といわれています。善導大師は「但以れば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦相焼く。」(『観経疏』真聖全P514)といわれています。そうしますと何故、苦界といわれるのでしょう。善導大師に先立って曇鸞和尚は『浄土論註』に於いて述べておいでになります。「蚕繭(蚕と繭の譬)の自縛するが如し」(真聖全P285)自分で自分を縛ってやがて死に至るということですね。曇鸞大師の機の深信といわれています。苦界を造作しているのは自分であったということですね。そのことを知らしめるために仏法はあるのでしょう。知ることに於いて転悪成徳するのですね。それが智慧です。ですから、「仏法は苦悩を除く法であると思うわけです。苦悩は何故起こるのか、もう少し考えて見ますと、それは反逆ですね。道理に反逆している見返りに苦悩がもたらされているのであると。道理に背いているわけですから。唯識論ですと、末那識の問題ですね。(問い「それから未那識は恒審思量というけれど無我を思うということになれば、末那識はあっても我執の働きがなくなるんじゃないですか?その時は阿頼耶識が純粋な我となるから末那識は一瞬働かないんじゃないですか?)私に曰く、末那識が無我を思量するとどうなるのでしょうね。前七識は阿頼耶識を所依として、境を縁として起こるわけですね。そうしますと、末那識だけが転依して平等性智に成るというわけにはいかないでしょうし、無我を思量すると、もう末那識という名はなくなりますね。末那識というからには、ひたすら有我を思量するわけです。「如来、我となりて」というのは、私流に解釈しますと、私は目的も行き先もわからず彷徨っているわけです。ふらふらしているのですが、ふらふらしていることさえしらないのです。それで、如来は私のふらふらにつきあってくださるのです。しかし、如来は行き先も、目的もしっておいでになり、ふらふらしていても目覚めておいでになるわけですね。これは天と地程の違いがあります。私が私のふらふらに目覚めることを信心というのでしょう。その信心は親鸞聖人は「便同弥勒」と褒め讃えられるわけですね。「念仏の人をば、『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。・・・他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。・・・念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとともうすなり。」(『一念多念文意』真聖P536~537)というわけです。(問い。自ら永遠に流転していくという自覚が還滅の方向になる時ですよね。ということは自分は救われる資格がない、永遠に救われないという方向(流転)が救われていく方向だということ?私に曰く。流転と還滅は説明すると、救われない自覚が救いだということになるのでしょうね。救われたいのに救われない自覚が救いだということはどのようなことなのでしょう。救われないととると、あるのは絶望しかありません。そうしたら絶望の自覚が救いということになるのでしょうか。絶望の先は自死しかないのではないでしょうか。最後の我執です。私は、救いというのは、救われないという自覚の前に、救われる必要のない自己に出遇うことだと思うのです。苦悩する必要を要しない世界に身をおいていることに目覚めるわけです。「ただ念仏」は流転の中において流転しないのでしょう。流転する必要がない世界、それを現生不退というのではないでしょうか。そして私の生活は浄土往生人として、浄土の一分をいただいて生涯を尽くしていけるのではないでしょうか。「人間の祈りの前に如来の祈りがある」、ここに頭が下がるのですね。その姿が人間誕生でしょうね。如来の祈りに頷いた姿が二種深信ですね。曽我先生の晩年は「機の深信」を叫ばれておられました。法蔵菩薩から二種深信そして機の深信という、先生の聞思の深さを思う時、「ただ念仏」、ただ頷くだけでいいのではないかと思うのです。命の事実にふれるということは理ではない事ですね。頭が下がるということが大事なことではないでしょうか。私の妄想をはたらかしますと、最近は妄想の塊になっていましてね、『正信偈』に竜樹菩薩を讃嘆されるお言葉として「悉く、能く有無の見を催破せん」とあります。否定を通して真実を顕すということが大乗の真髄であるということでしょう。そこに一つ問題が出てきますね。真実は「空」だということはわかるが、現実には迷い苦しんでいるではないか、何故なんだということです。無いのではない有ると、積極的に有る問題を提起してきたのが唯識ですね。「ただ迷いのみが有る」ということですね。認識の問題として深層に働く心を観察し、転依を体得することに於いて唯識性に通達する事を明らかにしてきたのでしょう。そうしますとね、親鸞聖人が明らかにされました二種深信はどこから生まれてくるのかと云うことなのです。曽我先生は法蔵菩薩と云うことで阿頼耶識を解明なさいました。晩年、機の深信を叫ばれるときは、私は末那識を憶念されていたのではないかと思うのです。(すごい妄想ですが)そして第六意識に上ってくる時ですね、法の深信は阿頼耶識の自覚であり、機の深信は末那識の自覚ではないかと思うわけです。第七・第八識はお互いに支えあっているわけですね。「第七なくば転ぜず、第八なくば転ぜず」という言葉がありますからね。相応しているわけです。そして、意識に於いて、はっきりと頷くことができるのではないかと思うわけです。「生死罪濁の身」・「煩悩具足の身」・「朝に紅顔あって、夕べに白骨となれる身」は如来の祈りに於いて明らかになった自覚だと思うのです。       (もう少しつづきます。)   

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第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(36) 分位行相(⑪)

2012-02-10 22:24:58 | 心の構造について

 難行道といわれる難の質。(3)

 「疑」は何故起こってくるのかということが問題になります。疑と難とどう関係するのか。又この問題は自利と利他にも関係する問題になります。そしてこれらの問題の根底に「疑」があるのですね。『教行信証』総序に「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん」と述べられ、『正信偈』 源空章においては「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。」と教えられています。生死流転の境遇に留まることは、道理を疑う(法を疑う)ことによって起こる、ということですし、大涅槃を証することは信心をもって本と為す、といわれているのですね。

 釈尊が菩提樹下で悟りを開かれて仏教が始まったとされています。そしてその後の仏教の歴史は修道論に終始して、煩瑣な教学に陥っていくわけです。そして自己を問うことが曖昧になっていくのです。『浄土論』のなかの五念門や、『唯識論』に説かれる五位の修道論、また菩薩十地の階位等、悟りを開く方法論に時を費やしてきたわけです。親鸞聖人はこのような修道のありかたを『大無量寿経』第十八願成就文の「至心回向」(至心に回向せしめたまえり)の文をもって360度転換されたわけですね。如来回向としてですね。何故なんでしょう。何故、「至心に回向する」から「至心に回向せしめたまえり」と360度転換する必要があったのでしょうか。

 問題提起ばかりになっていますが、もう一つ問題提起として、安田先生と兵頭格言さんの信仰の対話が物語っている一文を掲載します。

 兵頭 十方衆生というと大勢のように思いますが、自分も十方衆生の中にあるとは思っても、本願は十方衆生の本願のように思うのです。

 安田 それはあなたの思いに立っている。あなたは自我というものを思い、自我を救うために本願を思う。みんな思いです。思いは妄想です。本願を手段にして自我を救おうと思っている。そういう自我の立場です。そういう思いの必要のない本願の中におりながら、本願に背いている。あなたは、地獄というものもほかに思う。衆生もほかにあるし本願もほかにある。ただ自分にあるものは自我という思いだけである。思いが外にしているのです。しかし本願も内なのです、自己の内です。あなたは、思いというものでせっかく内に来ているものを外にしている。腹を立てたり欲を起こしたりしているのが罪ではなく、その思いが罪なのです。

 兵頭 今日はこれを考えさせて頂きます。 

 安田 自己ということと、自我とを区別しなければならない。思いが本願の機ではない。あなたの我執です。

 兵頭 思いと我執が混同して。

 安田 本願もそこに生きている。それが自己です。あなたのは自我の思いです。本当の自己にかえるのが教えです。自我の思いというものはわがままなものです。人のことなど何とも思わない、それが妄執です。仏法でも人でも何でも手段にする。そうして自我を満足しようとする。それが成就しないのは当たり前でしょう。欲は満たされるほど不満でしょう。欲の満たされたことはない。

 (回向について)

 兵頭 南無阿弥陀仏を立場とする。 

 安田 あなたの心が起こっても任せておけばよい。起こってもそれは立場ではない。心はなくならないけれども、立場にする必要はないd。

 兵頭 やはり自分を立場にしております。名号が立場になるとは。 

 安田 如来が立場を念仏として与えて下さっておる。念仏の立場に立つのが信心。あなたの心を立場にすれば仏法は客になる。客とすれば理屈になる。それに相手になっていては、あなたは日が暮れてしまう。念仏を立場にするというのは、向こうから衆生の立場になって下されること。向こうから私の立場に立って下さる。こちらの勝手にするのではない。

 兵頭 それが回向ですか。

 安田 それが回向です。

 兵頭 自分が名号の立場でないからわかりません。

 安田 あなたは上においている。上においては客になる。仏法を対象にしている。そうではなく、名号の方が立場です。それが夜が明けたのです。

           (『信仰についての対話 Ⅰ』 草光舎刊)より

 自分と自己ですね。これをはっきりさせないといけませんね。自分というと自我です。我執の立場です。自己というと本願に見出された人間本来の在り方です。安田先生と兵頭さんの対話からですね、親鸞聖人が浄土の真宗は大乗の中の至極であると言い切られたキーワードが見出されるように思います。難行道といわれる「聖道の諸教は行証久しく廃れ」・「浄土の真宗は証道今盛んなり」と言い切られる意義です。難行道は久廃といわれ、浄土真宗は今盛といわれるその根拠です。これは自力無効に関係することなのですが、難行という道はどこまでいっても成就しないという問題を抱えていることになります。人間の努力では成就しないということです。難と易と比較して難といわれているわけではないのですね。親鸞聖人が20年の歳月を比叡の山で修行を重ねられていたわけですね。そして山を下りられたということは、修行がきついとか、努力が足りなかったとか、という世間でいう比較の問題ではないということです。その修行の過程の中で難の本質を見定められたのでしょう。で、山を下りられた、と。

 この間の事情は『御伝鈔』に「建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。」と語られています。難行・易行は比較の問題ではないということを以て、もう少し考えて見ます。                

(つづく)