「信仰の反省ということも、反省して頼むということでなしに迴心懺悔する。罪悪深重ということは信ぜられた結果、本願に照らされた結果、南無阿弥陀仏が我々にたまわった結果が無限に反省させられる。宗教の問題が何であるかわからなかったそのために南無阿弥陀仏は生まれてきた、成就させられた。南無阿弥陀仏は助ける法が成就されたということ。助ける法が成就されたのもかかわらず、我々のお助けは南無阿弥陀仏に成就されているにもかかわらず助からずに居るというのは、我々の固執がそれだけ深い。うなづいて助かる法は、頼んで助かる法は成就しておるにもかかわらず、此方が頼まん。うなづかずに居る。それが我執である。助けんのでない、助からんのである。助からずにおるということが、それが法がはっきりせん迄は助からんのも御尤もということになるが、法が成就すれば仏の問題は終わったように見えるけれども、そこに助かる法が成就しても助からずにおるという我々の問題、我々の問題が新しく仏の問題になる。
仏教の問題というのは、我々が助かるか助からんかという機の問題が中心問題になる。南無阿弥陀仏は信心の問題を飛び越えて他にゆくのでない。南無阿弥陀仏の中に我々が明らかにされてくる。帰ってくる所は南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏に腹がふくれる。本来ふくれるように出来ておるのに、ふくれずにおった、ふくれてみればやはり南無阿弥陀仏の中である。
親鸞は難信ということをいっておられる。それはどういうことかといえば、往生成仏は我々の問題であるにもかかわらず我々を超えておる問題。往生成仏はそれこそ難中の難。こうもいえるけれども、一応はそうであるが、本願を頼めば本願自身がそれを解決しておる。本願によって往生成仏の問題が解決されるという、本願からいえば往生成仏は必ずしも難でない。我々が自力で解決しようとすると難であるが、本願を頼んで本願で解決されるというと必ずしも難でない。難は寧ろ頼むということにある。頼めん、それが難中の難。往生成仏は必ずしも難でない。信に往生成仏を解決して下さる本願に目覚めるということが難中の難。本願の中心問題は信心一つということになってくる。
結局仏法の中心問題を煮つめた所は信の一念にある。けれどもそれは不可能ではない。難信というのは不可能ではない、容易でないということ。難信というのは信が信自身を知った場合いうこと。難信というのは信ずる心の自覚内容である。信じない心には難信もないし易信もない、難も易も信がなければない。心が信自身を難信と知る。それは我々にあるべからざるものが、我々にあるという驚き。信というものは絶対に我々から出て来ない。我々にあるのは固執。分別の固執しかない。それが我々の本質である。理屈なしに本願を頼むというのは我々の心でない。我々の心でないというのは如来の心。信心というのは如来の心。如来の心をたまわる。如来の心に感動する心、感動すれば感動した心が如来の心である。そういう我々でない心が我々に起きた。我々に起きたものが我々の心でない、あるべからざるものがここにある。あるべからざるものという意味で、我々にあるものは分別の心しかない、そういうないという自己否定の懺悔を通して、そこに我々でない心がある。こういうのが難という。ただ困難という意味でない。かたじけないという意味をもったのを難信。つまり我々の固執というもので磨かれた仏の心、それが信心。固執を懺悔して仏の心に目覚める。固執を止めてでない。止められん固執というものの自覚を通して本願が自覚されて来る。そういう所に難信という言葉の深い意味があるのでないか。
我々のうなづかん心から仏の心が磨き出される。我々のうなづかん心は懺悔であると共に、其うなづかん心というものをくぐって磨かれた仏の心をたまわる。ご苦労は仏にある。仏にあるというと神話的になるが、寧ろ信心にある。信心自身がご苦労しておる。我々の長い間の固執の下にあって、固執によって磨かれてきた。如来のご苦労というけれど信心の苦労である。我々の固執は信心を苦労させて来た。不可思議兆載永劫の苦労を経て来たのが信心である。我々の本当の心、それが又如来の心そのものである。如来が何所かにあって苦労されたというのでない。如来がうなづかん我々と結びつく所に如来のご苦労というものがある。我々と無関係に法蔵菩薩のご苦労があったのでない、如来と我々と結びつく所にご苦労がある。如来が我々と流転の運命を共にせられて、仏の心を成就する歴史とせられた。其歴史が成就したということが我々にとっては時機当来。時機当来してそれに目覚めるということが生まれて来た。容易ならん歴史に対する感動は難信。
信仰と言いのは歴史的なものであって、ただ個人的思いには歴史はない。南無阿弥陀仏の中に南無阿弥陀仏の心。如来の心は南無阿弥陀仏の中に表現されておる。南無阿弥陀仏はそういう深い如来の心の名乗りであるし、又名乗りを通して、深いお心に対する感動である。我々の信心というものも、信心の自覚というものも本願の名乗りに対する感動共鳴である。本願に共鳴すれば共鳴した心が本願。其本願の心に立つならば、人間の罪悪流転を恐れぬ。如何に強い憍慢邪智も妨げることは出来ない。憍慢邪智を悲しむ心、憎む心よりももっと深い心、それが水のような非常に静かな如来の痛み。それに感動する。深い静かな心に感動する。感動したといっても、涙を流すよりも更に深いしずかな心である。 (完)
あとがき
昭和四十六年は主人の身体も支障なく過すことが出来、病状も固定してきたのでないかと思い深く感謝しております。しかし前のように彼方此方と出かけて皆様にお会いするのは何時のことか、七十一という年齢もありとても元のようにという訳には参るまいと思います。私も今は看病からもほぼ解放されましたのと、先日或老人からの問に対して主人の話しましたのを書き取り清書して送りましたが大変感銘を受けましたので、、主人の参る代りにプリントしてお手許にお届けしたいと思いましたのが、この 「下総たより」 を出す動機でございます。
曽我先生追弔会の講話は去る十一月廿日金蔵寺で話しました内の一部を訓覇様の許可を頂きのせることが出来ました。話のままで而も要領筆記のようなことで間違いがあればひとえに私の責任でございます。
このたよりは二ヶ月に一度位、日常の間に私一人聞くのは惜しいと思われるもの、或は講義の中で書留め得られたものをまとめてみたいと思っております。次号も御希望ならば其旨是非御申お越し下さい。 安田 梅 」
あとがきに安田先生の奥様が書き留められました文章も記しました。 以上無断書き込みで全責任は書き込み者である 河内 勉(釈 誓喚)の責任であります。関係各位には大変ご迷惑をおかけいたしますが、後学相続の為にお許しをお願いいたします。お叱りは anjali.tutomu@tune.ocn.ne.jp までお寄せ下さい。
次回は「下総たより」第二号 「感の教学」 を配信する予定でおります。