唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(26)

2012-02-27 22:23:41 | 心の構造について

 第三は、重ねて法執の染・不染の意味を説明します。

 「自下は第三に重ねて法執の染と不染の義を解す。問、何が故にか上に二乗と異生と言うて全に有りと言うや。」(『述記』第五末・十一右)

 「疏に「問何故上言至全言有也」とは下の論を生起するなり。」(『演秘』第四末・三十右)

 「法執は倶なる意をば、二乗等に於ては不染と名づくと雖も、諸の菩薩に於ては亦名づけて染と為す。彼が智を障うるが故に。此れに由って亦有覆無記と名づけ、二乗等に於ては説きて無覆と名づく。彼が智を障えざるが故に。」(『論』第五・七左)

 (法執と倶である末那識を、二乗等(二乗と異生)においては不染と名づける。とはいっても諸々の菩薩においては、また染と名づけるのである。諸々の菩薩の智を障碍するからである。これに由ってまた有覆無記と名づける。しかし二乗等においては無覆無記と名づける。二乗等の智を障碍しないからである。)

 二乗や凡夫において、法執と倶である末那識は不染とする、と。何故なら法執は、二乗や凡夫において菩薩の智を障碍するものではないからである、と述べています。従って無覆無記であると。法執が問題となることは、利他行ですね。利他が問題となる時には、法執が利他を妨げるからですね。二乗には問題とはならないのです。自利のみの問題だからです。煩悩障を断じて二乗の無漏智を得て、人執を断じて阿羅漢となっても仏には成れないと云うことになりますね。煩悩障は麤であり、所知障は細執であるといわれる所以です。

 「述して曰く、二乗等と云うに於て諸の異生を等す。不染と名くと雖も、菩薩に於て名づけて染と為す。菩薩の智を障うるが故に。此れに由って法執は二の無記に通ず。二乗に望めては是れ無覆と云う。菩薩に望めては亦た有覆無記と名づけたり。二乗をば障へざるが故に。」(『述記』第五末・十一右)

 「所知障の中には縦い不善も二乗を覆はざるを以て無覆と名づく。菩薩を障うるを以て有覆と名づく。又解す、不善心の中にも亦た唯だ無記なり、煩悩障と相違せざるなり。問、(所)知障は二乗を障えざるを以て、即ち無覆と名づけば、惑障は菩薩を障えず。応に無覆と名づくべきや。答、声聞は唯だ一果を求むるを以て智を障えざるが故に無覆と名づく。菩薩は雙べて一果を求むるを以て、惑を障えざるが故に無覆に非ず。問、智障は菩薩を障ゆるを以て、即ち唯だ有覆と名づけば、惑障は三乗を障ゆるを以て、応に是れ不善に非ざるべきや。答、知障は唯だ真見を障ゆるを以て。但だ有覆と名づけ、惑障は生死に処せしむるを以て。故に不善に通ず。又自ら損し他を損うが故に。(『樞要』巻下本・二十四左)