唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(33) 分位行相(Ⅶ)

2012-02-06 21:58:39 | 心の構造について

 後は(第三に) 平等性智が起こる位について

 「後のは、一切の如来に相続せると、菩薩の見道と及び修道の中の法空智果の現在前する位とに通ず。」(『論』第五・六右)

 (後の平等性智と相応する末那識は、一切の如来に相続し、また菩薩の見道と修道の中の法空智とその果との現在前する位に通じて存在する。)

 平等性智相応位について説明されます。一切の如来の全と、一切菩薩の見道の全と、及び一切菩薩の修道位の中の法空智と、その果との現在前する位とである、と。如来には有漏はなく平等性智は恒時に相続し、一切の菩薩は必ず法空観を以て見道に入る。また、一切菩薩の修道位の中の法空智と、その果との現在前する位にはすべて平等性智を起こすからである。

 「述して曰く、即ち平等智と相応する心なり。勝れたる全なるに従って論ぜば、即ち一切の如来の全なり、有漏無きが故に。一切菩薩の見道の全なり。頓・漸悟に通ず。一切の菩薩は必ず法空観を以て見道(一心真見道)に入るが故に。此れは三心真見道の義には非ず。一切の菩薩の修道の位の中の法空智と及び果との現在前する位となり。皆平等智を起こすが故に。人観は然らず。前に已に説きしが如し。」(『述記』第五末・四右)

  • 真見道 - 見道に於て、正しく無分別智を以て真理を見る段階をいう。これに関して二説がある。 (1) 一心真見道。煩悩を断じる位(一つの無間道)と真理を証する位(一つの解脱道)とから見道が成り立つとみる説。護法・戒賢の説。 (2) 三心真見道。三つの無間道と三つの解脱道から見道が成り立つと見る説。難陀・勝軍の説。

 見道通達位について (『法相二巻鈔』巻下より・『鎌倉旧仏教』p153)

 「カクシツツ凡夫ノ分斎ノ悟リ極マリヌレバ、無漏ノ種子ツイニ始テ下品ノ現行ヲ生ズ。是則下品ノ妙観・平等ノ二智也。コノ位ノハジメテ真如ノ理ヲ悟リ、ヨク分別ノ二障ヲ断ズ。是ヲ見道トナヅク。是ニ又二重々有リ。一心真見道、三心相見道、十六心見道、次第ニツヅキテ起ル事、十地ノ中ノ初地ノ始也。是ヨリ後ヲ聖者トナヅク、地上菩薩トナヅク。」

 (このように凡夫としての悟りが、その極致に達するならば、無漏の種子がついにはじめて下品の(無漏の)現行を生ずる。すなわち下品の妙観察智と平等性智との二つの智が(生ずる)のである。この位においてはじめて真如の理を悟り、分別の二障を断ずる。これを見道と名づける。この(見道において三つの)段階がある。すなわち一心真見道と三心相見道と十六(相)見道であり、(この三つは)順次つづいて起こる。この(見道)は十地のうちの初地の最初である。この(見道)より以後を聖者と名づけ、また地上の菩薩とも名づける。・ 意訳は横山紘一著『唯識とは何か』p384による。)

 平等性智の末那は無漏であると述べています。有漏ではない、と。我執を起こすのも末那識であるが、末那識を転じて平等性智を起こすのも末那識であることを教えています。私が迷っていることは、平等性智に促されているのですね。平等性智に促がされているということは、とりもなおさず、私たち人間は修道的人間であるということをあらわしているのではないでしょうか。