唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(27)

2012-02-28 23:22:37 | 心の構造について

 「論に法執倶意於二乗等と云う。凡夫に等取す。即ち二乗と凡夫なり。西明等の云く、菩薩の生空智を等取す。彼の智を障えざるを以て、亦た不染に名づくと云う。要集に云く、後の説を勝と為す。若し凡夫を等すと云はば、菩薩にも亦た有り。何故か等せずと云う。今謂く、前勝れたり。論に諸菩薩に於て云う。即ち凡・聖に通ず。若し菩薩の生空に望めて不染ならば、生空を起こす時には菩薩にあらざるべし。又亦た応に諸の菩薩に於て生空智を除いて亦た名づけて染と為すと言うべし。前の句は総じて説けり。文に復た除かず。故に知りぬ、総じて望めて菩薩の生空を起こす時をば等せず。然るに菩薩に於て等と言はずと云うは、諸言に摂むるが故に。前を以て後を影せる故に。倶に過有ること無し。」(『了義燈』第五本・六左)

 法執による染・不染の意味を問い、答えている科段になります。二乗等の視点か菩薩の視点かによってその意味の違うことを述べています。菩薩においては、法執と倶である末那識は染とする。法執は菩薩においては法空智を妨げるからである。二乗等は生空智を得ることが目的になりますから、法空智は問題とはならないというのです。従って二乗等においては法執と倶である末那識は無覆無記になりますが、菩薩においては法執は法空智を障碍するわけですから有覆無記の存在となるのです。

 その第二は、四無記の中では、異熟生に摂めることを述べる。

 「是れ異熟生に摂む。異熟識に従って、恒時に生するが故に異熟生と名づく。異熟果には非ず。此の名は通ぜるが故に。」(『論』第五・八右)

 (此れ(末那識)を四無記の中では異熟生に摂める。異熟識に従って、恒時に生じるから異熟生という。異熟果ではない。この名は、通じるからである。)

 四無記 - (無覆無記には詳しくは四つの無記がある)。

  •  (1) 異熟生(いじゅくしょう) - 前世の善悪業によって生じたもの。異熟無記。
  •  (2) 威儀路(いぎろ) - 行・住・坐・臥 、歩くこと、立つこと、座ること、横になることの四種の身体的動作をする時の心。
  •  (3) 工巧処(くぎょうしょ) - 技術・知識に基づく仕事や営みをする時の心。
  •  (4) 変化(へんげ) - 仏・菩薩が神通力を得て人々を導き救済するための種々の有り方。種々のものを作り出すときの心。

 法執と倶である末那識は、無覆無記である異熟識に従って生じるものであるから、無覆無記の中でも異熟無記であると述べているのです。異類熟であり、真異熟であるから異熟生といわれているのです。 次回は、異熟について若干の説明をします。(未完)