『解深密経』巻第四(大正16・707c)の文を引用して、第七識に法執が存在することを証明する。
「契経に説くが如し。八地以上には一切の煩悩は復た現行せず。唯だ所依の所知障のみ在ること有りと云う。」(『論』第五・七左)
(『解深密経』巻第四(大正16・707c)に説かれている通りである。「八地以上には、一切の煩悩はまた現行しない。ただ所依の所知障のみあることがある」と。)
「謂於第八地已上。從此已去一切煩惱不復現行。唯有所知障爲依止故」の文。(謂く、第八地已上に於けるなり。此より已去、一切の煩悩復現行せず。唯所知障の依止とのみ為るが故なり。」)
第七識相応の所知障の現行は一類微細に働き、知り難い障りであると説かれています。ここで説かれている意味は、八地以上には煩悩障(我執)は現行しないけれども、法執は現行することを明らかにする証拠として『解深密経』を引用しているのです。
「述して曰く、八地已上には一切の煩悩は復た現行せず。唯だ所依の所知障のみ在ること有り。此れ経文なり。」
その理由を述べる。
「此の所知障は是れ現なり。種には非ず。爾らずんば、煩悩も亦在りと云ひぬ応きが故に。」(『論』第五・七左)
(この所知障は、これは現行であり、種子ではない。そうでなければ、煩悩障もまたあるというべきだからである。)
「述して曰く、八地已去にあらゆる法執は是れ現行にして種子には非ず。此れは第六識の中の法執の現種(現行と種子)には非ず。彼をば地地に皆能く断ずと説くが故に。
(安慧の救を破す) 若し彼こには(安慧の救) 第七の惑と、余識(第六識)の中の法執との種子を説く。現行有るに非ず。現行の所知障は此の位(八地以上)に無きが故にと謂はば、(安慧の救を破す)即ち(第六の)煩悩の種子も亦応に在りと言うべし。十地の中には未だ第七及び余の修道の煩悩の種を断ぜざるが故に。応にこの位には(第六の)煩悩・所知の二障(の種子)倶に在りと言うべし。」(『述記』第五末・十右)
安慧の反論を想定して護法が破斥する一段になります。 (未刊)