第七末那識に於る阿羅漢位についてですが、初能変とはいささか趣が違うように感じます。それは永断と暫滅の違いによるものなんでしょう。
初能変では、阿頼耶の名を捨する段階に於いて阿羅漢としています。末那識相応の我見等に執着されている我執からの解放を以て阿羅漢と名づけられていますが、末那識に於ける阿羅漢は法執が問題にされています。従って無学果でないといけないのですね。
ただし、名が捨せられるのであって、体は転依して、無漏の末那識、平等性智としてはたらくことになります。
「阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり、故に有ること無しと説く」
と説明されています。
永断 = 阿羅漢
暫滅 = 出世道・滅定
染汚の末那識の断滅する位は、三乗の無学果の位に於て種子と現行を永遠に断滅するんだということですね。
この理由について、
「謂く、染汚の意は、無始の時より来、微細(ミサイ)に一類に任運にして転ず。諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず。三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。」(『論』第五・三右)
(つまり、染汚の末那識は、無始より以来、微細に一類に任運に転じている。諸々の有漏道をもっては、伏滅することはできない。ただ三乗の聖道をもって、伏滅することができるのである。真解脱の解(無分別智)は、我執に違背するからである。)
この意(末那識)は、有漏道をもっては伏することはできない。先に述べた『瑜伽論』巻第六十三の説と同じである。
「何を以ての故ならば已に離欲せるに猶行ずるが故にといへり。又解す、世道は唯だ是れ事観なり。此れは理に迷うが故に世道をもっては伏せずといへり。此の諸の煩悩は皆是れ本識の種子に引かれて、一切の時に於て微細に一類に任運に生ず。「染汚の第七は世間道の」所対治と及び能対治とに非ず。境界の縁力を以て差別に転ずるが故にといへり。」(『述記』第五本・七十七左)
• 事観(じかん) - 事(現象的存在)を観察すること。ここでは理観の対をいう。「有漏の六行を名づけて事観と為し、無我等を観ずるを理観と為す。」 六行とは麤・苦・障・静・妙・離の六つの認識のありようをいう。下界を麤・苦・障なるものとして厭い、天界を静・妙・離なるものとして願う、有漏の智を以て染汚の惑を断じようとする観法。
• 対治(たいじ) - 過失や煩悩を退治すること。対治される側のものを所治・所対治といい、対治する側のものを能治・能対治という。
人法二執という、この識の煩悩は微細にして、任運一類に転ずるものであるから、諸の有漏智をもってしては伏することができない。即ち、人法観の無分別智に違するので、その無分別智等流の後得智が現前する時も亦違すると。三乗の無漏智にてのみよく伏し、滅することが出来るんだということになりますね。
法執は法の体に迷い、生執(人執)は法の用に迷うものである。法執ありといえども必ずしも生執ありとは限りないが、生執ある時には必ず法執あるわけです。
生執有る時にはですね、
有漏の後得智は無分別智の等流ではないのです。ですから有漏の後得智を以ては無我の理に達することは出来ない。出来るのは、無漏の後得智が現行する時。無漏の根本智及び後得智を以て染汚の末那識を伏することができるという。
初能変異熟識にあっては、阿羅漢の位の中に第八地以上の不退の菩薩を含めたのですが、この末那識の断滅位は不退の菩薩は除くといっています。
何故ならば、第八阿頼耶識は我執相応によってのみ阿頼耶の名を得、我愛執蔵の種子が尽きることを以て阿頼耶の名を断捨する位が阿羅漢であり、これを永遠に断滅するのは第八地以上の菩薩にも通じるが、不退の菩薩には法執が在り、法執は菩薩を汚す為に、暫滅であって、永断ではないという。
漸悟の菩薩は、廻小向大の菩薩で、分別起及び倶生起の我執は断滅していますから、阿頼耶の名は捨せられているのですが、倶生起の法執は残るのです。これが問題とされます。染汚の末那識は「諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず」と、無漏が起こった時に、初めて伏滅されるといわれて、第八地以上の不退の菩薩には尚、染汚の末那が残るので、末那識における阿羅漢は三乗の無学果の位であると述べています。三乗の無学果の位に於て、染汚の末那識の種子と現行とを永遠に断じ滅するという、それを又 「捨す」 というと説明されます。
「然るに第八識をば唯だ煩悩に従って以て蔵の名を立てたり。今、染汚と名けるは亦法執にも通ず。自体に約して説く。此れが中に不退の菩薩は即ち是れ出世道に所摂の故に。法執在るが故に能く菩薩を染す。暫捨門に摂するなり。永捨には摂せらるるに非ず。無学に在って捨と云うは、其の所応に随って二種の染有り。一に三乗を染する、即ち謂く人執、無学に在って倶に行ぜず。二に法執を謂う。二乗をば染せず。但だ菩薩のみを染す。唯だ如来のみ捨す。此れが中には通じて説くが故に。染の意の現と種と永に滅すと言う、唯だ人執のみには非ず。」(『述記』第五本・七十六左)
問、 人執は二乗を染するので、所執の阿頼耶識の阿頼耶という名は捨するけれども、法執は菩薩を染するとも、所執の阿頼耶の名を菩薩においては捨することはない、という問が出されます。
答、 煩悩障(人執=我執)は麤である為に阿頼耶の名を立てる。しかし法執(所知障)は細である為に阿頼耶の名を立てることはない。そして煩悩は三乗を染するので所執の阿頼耶を捨すと名づける。法執は菩薩を染するので阿頼耶の名は立てない。法執が在ったとしても阿頼耶とは名づけないのである。阿頼耶という名は縛により、ただ煩悩にのみ在るが、染の体は障によるので、法執にも通じるのである、と。
暫滅については、
「学位の滅定と出世道との中には、倶に暫と伏滅せり。故に有ること無しと説く。」(『論』第五・三右)
(有学の位の滅尽定と、出世道との中では、倶に暫に伏滅される。その故に「無有」と説かれるのである。)
「述して曰く、其の所応に随って三乗の学位の滅定と出世道との中に暫く伏滅すというは、即ち随って何の乗にも障う所を便ち伏す。(1)二乗の初果已去ると、(2)大乗の初地の頓悟との二乗と及び菩薩との人空は唯だ人の染のみを伏す。頓・漸二悟の菩薩の法空は亦法の染をも伏す。」(『述記』第五本・七十七左)
末那識の種子と現行から永遠に断滅されるには、先ず阿羅漢になることなんですね。
そしてここで説かれていることは、有学位のことです。まだ学ぶべきものがあるという段階です。しかし有学であっても、滅尽定と出世道との中には末那識を暫く伏し滅することがあるので、「有ること無し」と説かれているのですね。
後得無漏(後得智)が現在前する時にも、これは、彼(無分別智)の等流であるから、またこの意(末那識)に違背する。
真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)とは倶に無漏であるから、出世道と名づける。
滅尽定は既に聖道の等流のものであり、極めて寂静でもある。此れにも亦末那識は無い。
未だ、永遠に、この種子を断じていない為に、滅尽定と聖道から出たときには、これは、また現行する。そして未滅に至るまではこの繰り返しである。
しかも、この染の末那識と相応する煩悩は、倶生起の煩悩であるから、見道での所断ではない。またこれは染汚のものであるので、非所断ではない。
末那識相応の煩悩は極めて微細であるから、あらゆる煩悩の種子を、有頂地の下下の煩悩と一時に直ちに断じる。それは勢力(せいりき)が等しいからである。金剛喩定(こんごうゆじょう)が現在前する時に、直ちにこの種子を断じて阿羅漢と成る。だから、無学の位には末那識相応の煩悩は永遠に、また再び起こるということがなくなる。
二乗の無学が大乗に廻趣した場合、その初発心より未だ成仏しないところまでは、実にこれは菩薩といってもいいのであるが、また阿羅漢と名づけるのである。応の意味が等しいので別にこれを説かないのである。
二乗の無学が大乗に廻趣した場合、その初発心より未だ成仏しないところまでは、実にこれは菩薩といってもいいのであるが、また阿羅漢と名づけるのである。応の意味が等しいので別にこれを説かないのである。