独り言 (雑感ですので、それぞれにつながりはありませんが、一応保存しておきます。)
最近は自炊するのも面倒になってきて、ランチを提供してくださるお店を重宝しています。そこでの一言ですが、現代社会が抱えている問題を垣間見ました。そのごとにおいて、地域社会に於けるお寺の存在意義も確かめることができました。
あるお客様の愚痴になるのでしょう、「いつでもそうなんだけど、最近は何をやってもうまくいかないので心が滅入ってしまう」というお話でした。自分に触れられておられるのだが、思い通りにいかない自分に歯がゆい思いを抱かれている。
でも、このお客様は、店主に心を開かれて、愚痴を吐露することがおできになられたんですね。これで随分心が解放されたと思います。しかし、独居老人(僕もその一人)が増える社会で、心の悩みを打ち明ける相手がいないということは悲劇です。核家族が生み出した空虚さを感ぜずにはおれません。
そういう人たちを受け入れる受け皿作りが必要だと思いますが、真宗寺院の聞法の場所である本堂は正に過去から現在に至る迄その役割を果たしてきたのではありませんか。
僧侶は社会的にも尊敬され、信用もあるわけですから、先ず、愚痴を聞いてあげることからお寺を開放し、「阿弥陀さんがついておられますからね。共に手を合わせ南無阿弥陀仏を申しましょう。」と、教化とは、こんなところから始まるのではないでしょうか。
駐在の竹中さんが推進されている「雑談から始める聞法会」の重要性を感じました。
まぁお寺だけの問題ではなく、推進員の活動のあり方ににも示唆を与えてもらいましたね。
同時因果と異時因果。因果に二通りの意味があるのですね。仲立ちするのは縁です。縁に依るわけです。
しかし、生き様の中で現在しているのは同時因果です。異時因果は業(行為)に関わる問題ですね。
仲野先生の「人間は自分の心に自分が縛られる」と言うお言葉は、仲野先生が仲野先生自身に対して「人間は(自分は)」と発しられたお言葉である思います。
如来の願心に触れられた感動が「縛っているのは我が心だ」と、僕はブーメラン現象と云っているのですが、自分の業は自分が引き受ける以外に引き受ける場所が無いということでしょう。
如来の願心に触れなければ分からないことなのですね。如来の願心に触れることが因、精密に言えば、触れることは果になるのでしょう。因は如来の大悲心ですね。大乗的に言えば、無為自然の法則です。無為自然の法則に逆らっている自分が見えない。そこに大悲心が働いているのでしょう。如来の苦悩ですかね。辛くて厳しいですが、苦悩という現実が与えられているのですね。仏教は除苦悩法と云われています。苦悩を除く法は何処にもないのですね。いのちはいつでも無為自然を生きている。
生きているけれども、生きることを遮っている染汚の心が横たわっている。染汚は苦悩を生みます。苦悩を通して如来の願心に触れよという催促なのでしょうね。如来の痛みは苦悩を与えることであり、「獲」は苦悩を通してしか知り得ることのない世界に目覚めよということなのでしょう。
大悲は如来の涙だと思いますよ。涙させてはいけませんね。
意識の底に横たわっているのは、人願は迷いの存在だということであり、迷いを翻すことを、生きる目的とすることに於いて人間性を確保するということなのだと。
こうは云いますが、僕の生き様は異時因果なんですよ。例えば、花の種を蒔きます。やがていろいろな条件の中で花を咲かせます。
この在り方は功利心なんですね。花はいいですよ、自然の中で条件に応じて花を咲かせますからね。
私はどうですか、頷けないですね。頷けないままが、頷けない種子が頷けない種子を相続して現在の行為を決定しているわけです。
心の本来性は能動的な意味合いはありませんので、積極的には「あんた間違っているで」とは言いません。
例えば、精密機器のようなものです。理に合わなければ動きません。人間には情がありますので、怒り、腹立ちが生れます。これが苦悩です。理に合わないのは、理に触れているから言えることですね。親心というものでしょうか。
苦悩はこのように、因果が同時に生起しているのですね。
「弥陀の智願海な深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に生まるることを得べし」という声を聞くということが眼目となることでしょう。
有漏(迷い)の種子が縁に触れる(縁も染汚に変化させる)ことに於いて現在(現行)することも有漏であるということです。
これは不合理性です。不合理性は常(無為)に合理性を求めています。求めていることに触れて目覚めが生れてくるのですね。
しかしね、触れ得た者が、こういう世界も有るんだよと伝えていくことが大切な事業なのでしょうね。
唯識は迷いの構造を解き明かす中で、もって生まれた執着(倶生起)と生まれてから起こす執着(分別起)をはっきりと区別して説いている。
倶生起の法、我執は仏陀に依って見いだされた根元的無明ですね。つまりね、仏陀に出会わなければ問題にならない事柄なんでしょうね。
真宗はニ尊教と教えられていますが、発遣の教主は弥陀の招喚の事実から、迷いの根元は無明であると教えられたわけですね。
弥陀の招喚が教主を通して具体性を持ったのでしょう。
「苦悩の衆生を捨てずして大悲心をば成就せり」
苦悩の衆生が見いだされたわけですね。
倶生起の法、我執に依ってしか生きていけない存在がはっきりとしたわけです。
ですから❗後天的な分別心は、いろいろな教えに依って教化されるのですね。しかし、この教化は、執を依り所にしたものにならざるを得ないのです。
邪教、邪分別として厳しく糾弾されます。この厳しさは還相菩薩の働きかけだと思うんですね。還相菩薩は仏果から無住処涅槃の菩薩にとどまることを願心として生きていかれるのでしょう。仏陀とはそういう存在ではないのかなと思うんですね。
帰る家(浄土)があってさまよえる❗さまよえるけれど迷わないのが菩薩ですね。遍ねく智恵が具わった存在だといわれています。
この菩薩に依って私の救済が成り立つわけですね。邪教、邪分別を依り所にするなとですね。
先週の土曜日、なむの会で梶原先生の講義を聴講しました。内容は、二十一願、二十二願についてでしたが、先生の思索の深さにただただ固まって聴いておりました。
先生の講義とは全く関係がありませんということを断っておいて感話です。
二十二願はご存じのように還相廻向の願と云われていますが、二十一願と深い関係にあるのですね。
還相廻向と云うと、何か往相廻向の果のように思えるのですが、往相廻向が成り立つのは、如来が如来の自己限定において衆生を見いだされたことに依るのではないかと思うんですね。
つまりね、如来が如来自身の中に衆生を自覚し、八地の菩薩に留まって、衆生と共にという願心に生きられるのでしょう。頓悟の菩薩と云われていますね。煩悩具足の菩薩ですが現行することはありません。種子は内包されているが現行しないんですね。
ですから、衆生と共に流転できる。流転できるというところに発願廻向の意義があると思うんです。
こういうところに、人間が三悪道を離れて、人間が人間として歩むことができるだんだという背景に還相廻向が往相廻向と因果同時として語られているのではないのかと。
如来の自己限定が法蔵菩薩の願心ではなかったかと思ったことです。
酒🍶をいただきながらの呟きです。スルーしてくださいね。
「往生浄土の道をといきかんがためなり」、本当は、私は私の歩むべき道(方向性)を見失っている、なんかね。仏法を聴聞していても、自分の思い込みで聴いていると思うんですね。
その点、大乗の論者は緻密ですね。理証・教証をもって、「我が計らいに非ず」と。
この証が現量になるんですね。
僕はここが抜けてますねm(__)m
FB友達のMさんが、往生について熱く語っていたと言ってとられましたおられましたが、往生とは、凄く厳しい問いかけですね。
それに依って生きるか、死すのかという分水嶺に関わる問いですし、世界は既に死に体ですから❗人間回復の道は、往生浄土を問う以外にないんでしょうね。
人間回復は、六道に通ずるのでしょう。人間として生をうけた者はね、はい、責任があるんですよ。
ですからね、現生か死後かの問題ではないのでしょうね。
転依の問いかけだと思います。
不退の問題かな。
三乗無学果
不動地
初地(❔)
ここは現実の問題がですよ。
私はどう生きているのかですね。