唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

昨日の講義の補足説明 (1)

2016-10-21 22:44:14 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  昨日の講義の補足になりますが、初能変における「初阿頼耶識」が「阿羅漢位捨」で迷いが転依する階位が示されていたわけですが、
 第二能変第五頌第三句・「依彼転縁彼」の中でも、伏断位次が、問題になっているのです。その所を少し読んでみます。
  第八段第十門 ・ 起滅分位門(いかなる位によって末那識を断ずることができるのかを問う。)
 「此の染汚(ぜんま)の意は無始より相続す。何(いずれ)の位にか永(とこしえ)に断じ或は暫く断ずるや。」(『論』第五・二右)
 (この染汚の意は、無始より相続して働きつづけている。しかしどのような位に至ってこの末那識は永遠に断じられ、あるいは、暫く断じられるのであろうか。)
 「染汚の意」(末那識)は人執と法執の二執を含めて述べられ、また、断に永断(ようだん)と暫断(ざんだん)とがあることが以下に述べられます。
 答。(伏断分位(ぶくだんぶんい)について説明される。)
 「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。」(『論』第五・二右)
 本頌の第七頌第三句(第二能変第十句)を挙げて答えられます。「文の中に二有り」と、二つの部分から成り立ちます。
 一は、末那識を伏断する分位についての説明。
 二は、分位の行相を説明です。
 その一がさらに二つの部分から述べられます。
 初めは、本頌を挙げて説明され、
 後に異説との論争を通じて答えます。
 この初がまた二つの部分から述べられます。
 初めに本頌を挙げ、
 後に個別に説明がなされます。
 本科段はその初です。
 (阿羅漢と滅定と出世道とには、末那識は無いのである、と。) 概略を説明しますと、
 「此の染汚の意は無始より相続す。何の位にか永に断じあるいは暫く断するや。阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり。故に有ること無しと説く。学位の滅定と出世道との中には、倶に暫に伏滅せり、故に有ること無しと説く。謂く、染汙の意は、無始の時より来、微細に一類に任運にして転ず、諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず、三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是は彼の等流なるをもって、亦此の意に違えり。真無我の解と及び後所得とは倶に無漏なるが故に、出世道と名づく。滅定は既に是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此れにも亦有るに非ず。未だ永に此の種子を断ぜざるに由るが故に、滅尽定と聖道とより起こしおわんぬる時に、此復現行す、乃未滅に至るまでなり」 (『論』第五・三右~左・新導本p197~198)
 「阿羅漢とは、総じて三乗無学果の位を顕す」と。この位には染の意の種と現行と倶に永に断滅する。初能変の第八・伏断位次門に「阿羅漢の位に捨す」と。この位は我愛執蔵現行位ですね。阿頼耶識の名を断捨する位次を明らかにする段がここになります。応供ともいわれます。仏の十号の名の一つですね。ただですね。初能変においては、阿羅漢位の中に第八地以上の不退の菩薩をも摂めたが、末那識の断滅位においては、不退の菩薩は除く、それは第八識は我愛執蔵によって阿頼耶識の名を得るので、これを永捨するのは第八地以上の菩薩なのですね。末那識を染汚と名づけるのは、我執の染汚と法執の染汚が問題となるわけです。「第六識が単に生空無漏観にある時には、この識なお法執を起こして染汚を永捨せず、第六識が法空無漏観に入るに及んで始めてこの識の法執は除かれる。」(『唯識学研究』p291~p295)といわれています。したがって八地以上の不退の菩薩には染汚の末那が残るので永捨できないところから、阿羅漢の中に不退の菩薩は入れないといわれます。
 出世道とは、「染汚の意は無始の時よりこのかた微細に一類に任運にして転ず。諸の有漏道を以っては伏し・滅すること能わず。三乗の聖道のみ伏し・滅する義あり。真無我の解は我執に違せるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是れ彼(無分別智)の等流なれば亦此の意(末那識)に違う。真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)は倶に無漏なるが故に出世道と名く。」
 人法二執という、この識の煩悩は微細にして、任運一類に転ずるものであるから、諸の有漏智をもってしては伏することができない。即ち、人法観の無分別智に違するので、その無分別智等流の後得智が現前する時も亦違すると。三乗の無漏智にてのみよく伏し、滅することが出来るのであるという。
 法執は法の体に迷い、生執(人執)は法の用に迷うものである。法執ありといえども必ずしも生執ありとは限りないが、生執ある時には必ず法執あるわけです。
 (用語解説)
 人執 - 生執ともいう。生命的存在が実体として存在すると執着すること。また人を構成する要素(法)も実体として存在すると執着する法執と合わせて二執という。それに対して、
 人空 - 生空ともいう。生命的存在が実体として存在しないこと。また生命的存在を構成する諸要素は存在しないことを、法空といい、生空とあわせて二空という。 玄奘は諸経論の訳で人空・我空という訳を否定して生空という訳を用いている。人空といえば人のみに限られ、我空といえば我は法にも通じるから、いずれの表現も問題があり、生空という表現が適切であるとされた。
 また、末那識が、滅尽定では起こらない理由は、『論』に「滅定は、すでに是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此にも亦有るに非ず」と。
 滅尽定は、聖道の後得智の無漏観の等流のものであるから、染汚意である末那識とは性格を異にするので、この位には末那識は起こらない、という。また、極寂静であり、涅槃のようなものであるので、ここにも、末那識は起こらない。しかし、涅槃ではないので有漏の定である。六識と第七識は滅するけれども、第八・阿頼耶識は滅していないのである、と。
 阿羅漢と滅定と出世道をまとめて三位といいならわしています。この三位には染汚の末那識は存在しない、と。厳密には暫断と永断を含んで述べられているのです。
 「無有」と言うは、永と暫との義有り」(『述記』第五本・七十六右)と。
 初能変における阿羅漢とはを学んできたわけですが、第二能変に於いても再度問題となります。
 三の位を個別に説明されますが、初めは阿羅漢についてです。
 「阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり、故に有ること無しと説く。」(『論』第五・三右)
 (阿羅漢とは、まとめて三乗の無学果の位を顕している。この位には、染汚の末那識の種子と、染汚の末那識の現行とを倶に永遠に断しているのである。よって、三の位には末那識は「無い」と説くのである。)
 阿羅漢とは総じて三乗の無学果の位をいう。初能変の最後に、本頌では第四頌第十句に「阿羅漢の位に捨す」と。それに応じて第二能変の最後に阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」と結ばれています。
 「阿羅漢」とは何か、それから「捨す」とは何かという問題がありますが、『論』には「此の識(阿頼耶識)は無始より恒に転ずること流(る)の如し。乃至何の位にか当に究竟(くきょう)して捨するや。阿羅漢の位に方に究竟して捨す。謂く諸の聖者の、煩悩障を断ずること究竟して尽くる時を阿羅漢と名く。爾の時には此の識の煩悩の麤重(そじゅう)を永(よう)に遠離(おんり)せるが故に之を説て捨と為す。」(『論』第三・十一右)『新導本』p108)と。阿羅漢とはただ煩悩障を断じ尽くすのであって所知障を断ずるものではないといいます。そしてこの位に於て煩悩の種子です、「煩悩の麤重を永に遠離する」ことですが、煩悩の種子を永遠に遠ざけることが「捨」という意味です。そしてその「捨」は何の位においてかというのが「阿羅漢位」であると答えています。「此の麤重の言は煩悩の種を顕す」(『述記』)続けて『述記』には『対法論』(『大乗阿毘達磨集論』巻第十)等の証を引用して説明されます。「『対法論』等に種子をも麤重と説くが故に。煩悩の現行をも亦麤重と名づけ、無堪忍性(習気)をも亦麤重と名づくと雖も、然も今は但種子をのみ取って余には非ず。種断じぬる時に(第七)現行の執蔵と、(第六)発業潤生(ほつごうじゅんじょう)の惑とは皆起らざるに由るが故に、説いて名づけて捨とす。此の執蔵と云う名は唯だ煩悩の縛に約して説く。法執は縛に非ざるが故に断ずと説かず。」
 「諸の聖者」というのは、見道に入って真如を覚った人が、次の段階で修道を修め煩悩障を断じ尽くした段階を阿羅漢というと述べています。法執(所知障)を問題としないのは、法執の体は解脱を障碍するものではなく、発業潤生する用がないからであると述べています。我愛執蔵の種子が尽きることを以て阿頼耶識の名を断捨する位が阿羅漢であると。
 阿羅漢とは?
 「此の中に所説の阿羅漢とは、通じて三乗無学果の位を摂めたり。皆已に永に煩悩の賊を害するが故に。世間の妙供養を受くるに応ぜるが故に。永に復た分段生を受けざるが故なり。云何ぞ然るを知る。決択分に諸の阿羅漢と独覚と如来とは皆阿頼耶を成就せずと説けるが故に。集論(じゅうろん)に復た若し諸の菩薩菩提を得んとせし時頓に煩悩と及び所知障とを断じて阿羅漢と及び如来とを成ずと説けるが故に。」
 阿羅漢の三義が述べられています。
•(1) 応供 - 世間の供養を受けるにふさわしい人。「世間の妙供養を受くるに応ぜるが故に」。 
•(2) 殺賊 - 涅槃に向かう者にとっての賊である煩悩を退治した人。「已に永に煩悩の賊を害するが故に。
•(3) 無生 - 解脱によって分段生を受けないひと。「永に復た分段生を受けざるが故に」。
 三乗無学果の位に至ると、阿頼耶識が捨すと。上の三義を備えている三乗の無学位に於て阿頼耶識という名が捨てられるのである。それは阿頼耶識の場合は、阿頼耶識の阿頼耶という名は執着の対象となるという意味ですから、末那識の四煩悩等によって執着されるものから名づけられているのです。ですから阿頼耶という名が捨てられるのは、末那識の我執がなくなる位である。この位は八地以上の菩薩であるから、初能変における阿羅漢とは八地以上の菩薩を含むのである、と。
 では末那識における阿羅漢とは、という問題があるわけです。次回にします。