唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

本日の学習会の案内

2016-10-09 10:51:31 | 『成唯識論』に学ぶ
 

 本日の学習会を菊池師がUPしてくださいましたので、転載させていただきます。
 「【唯識学習会】
於:正厳寺 講師:河内 勉師
本日15時~17時 参加自由
 例えば夜空に煌々と輝く月ですね。私たちは月という概念を見ていますね。実体としての月はどこにも無いのです。自分の心に映じた月という概念ですね。仮に有るということなのです。ですから諸行無常・諸法無我の理に由って実体としてのものは無いということになるのです。あるがままに見るということは出来ないのですね。自分の都合に合わせてみているのです。その自分も実体として有るわけではないのですね。仮に存在しているということ、無我の我を生きているということでしょう。「識所変に離れては皆定めて有るに非ず」私の心を離れて実体として実在するのではない。私の心で見ているに過ぎないのですね。それを仮というわけです。仮ということに於いて執着から離れることが出来ますね。実という固執ですね。そこでは執着が離れません。聞法は自分を問うことですね。そうしましたらどれだけ自分を問うことが出来るかです。問いの深さに比例して仏法が聞こえてくるのではありませんでしょうか。打てば響いてくるのですね。打たなかったら何も響いてはきません。打つのはあなただと催促されていますね。「能く掌の中において一切世界を持せり。」(『大経』)掌、手のひらですね。手のひらの中に一切の世界が納められているといわれているのです。手のひらの中にということは、仏の教えを受け止める姿だそうです。掌で仏法を受け止めるのですね。私たちはどれだけ大きな掌を持ち合わせているのかが「今まさに」問われているようです。
河内 師ブログ転用ー 場所: 正厳寺」

 正厳寺様の掲示板に「心の仕組み」について学んでいます旨のフライヤーを掲示させていただいております。ここでも種子生現行・現行熏種子が教えられます。今日も、御住職から電話をいただきまして、「ご門徒さんがお二人見えられるので、よろしく」とつたえられました。遅々なる歩みではありますが、「継続は力なり」という言葉にも表されますように、聞法の姿勢が、仏法の種まきをしているということなのでしょうね。種をまく必要はないのですが、熏習されたものは、香気を外に漂わせることになります。このことは、私の聞法の姿勢が問われていることになります。
 命は二つの意味があります。
 一つは有漏の命です。有漏の命は「恒に転ずること暴流の如し」と世親菩薩は教えられます。
 一つは無漏の命です。有漏の命は南無阿弥陀仏ですね。言葉をかえれば、真如であり、無為自然であり、法性であり、如来なのです。そしてこの無漏の命に支えられて有漏の命が躍動しています。要は南無阿弥陀仏なのです。
 要がなかったらバラバラ、命は空中分解してしまいます。でもそうはならなくて、命が保たれているのは要が有るからです。要はもう一つ言葉を変えれば、「道理」です。すべては道理によって動いています。その因を造っているのが「私」であることを明らかにしたのが仏教ですね。
 ではどうしたら道理に目ざめることが出来るのか、それが七高僧の問いかけになるのです。