唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門  廃立 (3)

2015-02-26 20:57:22 | 初能変 第二 所縁行相門
 
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     尾張徳川家の雛まつり

 
 u>「二つには分別の勢力に随って故れ変ず」(『論』第二・三十二右)

 二つ目に分別変が説かれます。分別をして変化するのですが、主体は私です。私がいろいろ考えて分別をして、それによって変わっていく、『述記』には「作意(サイ)して生ずる心なり。」と釈しています。作意は、考える、思考する、思索することです。私の心を働かすマナスカーラという原語からも伺えますが、マナスとは思量する、自分にとって一番都合のいいことを愛して止まない心から生じたものが変化したことを分別変と表しているのでしょう。
 もう一つの意味が、遍行の心所の中の作意の働きです。種子生現行する前の種子ですが、種子は衆縁を待って現行するわけです。衆縁を待つと云う時にですね、私たちは、現に生きて動いているわけです。その作用を担っているのが作意なんですね。常に阿頼耶識に働きかけて、阿頼耶識を目覚めさせ、対象に向かわしめる作用を持った心所であるわけです。

 「作意とは謂く、能く心を驚するを以て性と為し、所縁の境の於に心を引くを以て業と為す。」
 
 「驚する」とは心を始動せしめ、対象に向かわしめる心作用ということです。
 私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になります。
 遍行には五つ数えられます。触・作意・受・想・思ですが簡単に説明しますと、「触」は触境ですね。「境に触れ令むるを以て性と為し。受と想と思等の所依たるを以て業と為す。」 境は外界であり、対象ですが、その対象に触れること、認識を可能としている心所が触の心所なのですね、この触が受・想・思の所依となるということです。触がなかったなら、受も想も思も起こってこないのです。ですから、花を見る、雲を見る、或は音を聞くということが可能なのは、「触」の心所が深層で働いているからなのです。鼻を見るという眼識、音を聞くという耳識、匂いを嗅ぐという鼻識、味わうという舌識、暑い、寒いと感じる身識、意思表示を行う意識もですね、「触」の心所が基盤となっているということなのです。どうでしょうか、当たり前と思っていることがですね、命の働きとして与えられているということなのですね。
 作意は「触」とともに、同時ですね。心を動かしていく働きです。この行為が生れてくる背景にですね、いろんな条件が重なってきます。若い時は視力は1,5位でよく見えていましたが、最近は老眼が進んで老眼鏡を手放せません。何もかも霞んで見えなくなっています。見るという一つの事をとっても、私が見る対象は日に日に変化しているわけです。難しい言葉では、根・境・識の三和合といいます。この三和合が変異に分別して境に触れ令む、ということなのです。だから日に日に同じ道を通って仕事場に向かっているわけですが、同じだと思っているだけなんです、実は違うんですね。絶対化という問題が潜んでいます。
 そして「触」が所依となる受・想・思です。受は受け入れる、領納することです。「順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し」といわれています。対象に触れたことを領納する。すべてですね、取捨分別は行わないで、すべてのものを受け入れる、これが受の性です。「愛を起こすを以て業と為す」といわれています。業は何かと云いますと、執着です。同時にです。ここでもですね、三法展転因果同時ということですね。受は執着を起こすわけです。三受相応とか、五受相応といいますが、苦・楽・捨・憂・喜・捨という、触れることにおいて受け入れるということが起こってくる、その時に五受という具体相が表面化してくんですね。
 次に「想」ですが、順次に起こってくるということで説明されますが、説明です。実際は同時なんです。言葉によって言葉を離れた世界を表現しているわけです。受までは、はっきりとしてた具体相はないわけですが、「想」に至って、認識の具体相が出てきます。僕はパソコンの前に座っているわけですが、パソコンである、椅子である、キーボードである、参考書である等々ですね。これを「境に於て像を取ると以て性と為し」といわれています。業は何かといいますと、名言です。言葉を以て認識するということですね。「種々の名言を施設するを以て業と為す」ということです。
 五番目が「思」の心所です。行動を起こすとか、意思決定ですね。私たちは意思決定も、意識で行っていると思うんですが、そうではないということを教えています。一言でいえば条件内存在です。意思決定があっても条件が整わなければ行動を起こすことは出来ません。「心をして造作せ令むるを以て性と為し」と。意思決定は、善・悪・無記のいずれかに決定する作用ですね。そして具体的な行動に移していくわけです。
 そしてこれらの五遍行が第八阿頼耶識と倶に働いているということです。意思決定をし、具体的な行動として動くのは阿頼耶識の具体相なのです。何をいっているのかといいますと、私たちは阿頼耶識を所依、依りところとして現実生活を送っているということなのです。本来は、我執を超え、法執を超えて「いのち」は与えられているということなのでしょう。
 阿頼耶識と共に生まれ、阿頼耶識と共に生かされているということになりましょうか。善導大師は『観経疏』序文義に「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の ・血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と、内因と外縁の因縁和合に深い恩をいただいておられます。自分は自分の生まれたいという意思決定により、父母の力を借りて生み出されてきたんだという自覚です。
 その事の意味する所は、迷いの世界に自らが望んで、自らの業を背負って彼岸の世界を明らかにする為に生まれてきたんだということでしょう。いつの間にか経済優先になって本来のあり方を喪失してしまっているわけですが、亡き父は最晩年に、我が身を以て生きるとはこのようなことだ、と教えてくれました。夢幻は覚める時が来る、その時に自分の人生は豊かであったと言えるのか、「勉、答えられるか」。「俺の人生は何であったのかわからん。早くお迎え来んかな」としみじみ語っていました。終戦から日本復興の為に粉骨砕身してこられた父の言葉には重みがありました。私を育てるために一生懸命であり、それが生き甲斐で違いなかったのでしょうが、人世も終焉に近づいた時に、父から出た言葉が「虚しい」ということだったのです。
 何故、そういうことになってしまったのか。そのことに答えているのが分別変です。襟をただして学んでいかなければと思います。またまた脱線してしまいましたが、大事な所だと思いましたので書き綴ってみました。