唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

友との対話 S君の感話

2015-02-09 22:56:21 | 友との会話
 

 S  感想としては、何が目的で講座を聞いているのか?考えていました。別に講座を聞く以外に時間の使い道はあるわけですし。相変わらず言葉の意味は解りませんが、解らないものはとりあえず解らなくてよい。と思う事にしました。以前からずっと思っていたのですが、今見てるものは本当に存在しているのか?と考えてしまいます。自分自身は存在するのか?本当は夢の中いや、死の間際で意識がないのではないか?と考えてしまいます。考える理由として、現在の自分自身を認めたくない。と考えているのかもしれません。 しかし自分自身は存在しています。他人が証明してくれています。このコメントを書けば、返信があるからです。他人が生きている事を証明してくれています。しかし他人と見ている世界が同じではありません。自分自身が色づけをしているからです。自分自身に都合のみたいなよいように色をつけています。100人いれば100人の世界があるわけです。しかし人間には色に染まらない心も存在するとされています。染まらない心、分別をしない心となるのでしょうか?僕自身が考えたのは、身と心は付かず離れず、つまり身の中に心はない。心とは自身が写し出した世界。心が写し出した世界を見る事は出来ても、自分自身を見る事は出来ない。しかし見ている世界が自分自身の心ならば、他人を認める事は出来るのではないのかと。他人には他人の世界があり、侵攻は不可能なはずでしょう。それを忘れて自らの世界に引き込もうとする。だから争いは絶えないのかもしれません。会話してるように見えて、実は自分自身の意見を言っているだけではないかと。ただ自分自身の利害が一致した場合、派閥が生まれ、意見が一致しない人間を排除しようとします。セクトと呼ばれるものなのでしょうか?人のふりみて見て、我が振り直せ。と言った姿勢が重要なのでしょう。前にも言ったと思いますが、人と人との間に存在するものは何か?他人との世界が自分自身の持っている世界は交わる事はあるのか?国境で言えば非武装地帯があるのかもしれませんね。自分自身を認めて欲しいが為に、他人の国土を攻める。 自我と言ったものが他者を攻撃するのでしょうか?くだくだと長い文章になってしまいましたが、非武装地帯が人間関係にとってなんであるか?ある意味一番平和な土地と言った事になるのでないかと。相手を認める、よりまずしなければならないのは、自分自身には自我があり、自分自身を知る。と言ったところかなと。自分自身が見ている世界は自分自身が責任を持たなければなりませんね。妄想で生きている。妄想で生きているならいくらでも変化は可能かと。

 河内 勉

 存在というのは、時と共に、時に於て在るものという言いかたが出来るかと思います。時は流れています。流れと共に在るものが存在と云う言葉の持っている概念でしょう。存在するのかと云えば、存在しない。存在しないのかと云えば、存在する。自我と云う固定化した我は実我ではないということでしょうが、自我は非我といった方がいいのではと思いますね。時の流れの中で考えて見れば、生まれてこのかた、自分に出会ったことはありますか。思い出という記憶の中には自分は存在したかもしれませんが、それは過ぎ去った過去のことに過ぎません。また未来に自分存在はしません。今という時に於ても過ぎ去った過去です。この瞬間の保証はどこにもありません。諸行無常という真理ですね。諸行無常には隠された真実があるんです。それは諸行無常に於て常に触れることなんですね。それを無量寿といっていますが、思うに、「他人が証明してくれています」その通りです。我は他に於て見出されてきた者ということが出来るのでしょう。汝と呼ばれた自己ですね。そうすると他は無量壽なんです。無量寿=常・楽・我・浄の世界です。
固定化され得ない我を固定化してしまうのが自我という執われなんですが、本来自我は我に執われることを通して執われない自己に目覚めていく目覚めなんでしょうが、私たちは自我に留まって自分に執着してしまっています。自分が自分に逆らって生きているんですね。このような生き方を正論としていますから、正論と正論がぶつかるのは必然のことです。正論と云う反逆者が自分という固定化された我ですね。反逆者が反逆者を生み出すのは理の当然のことです。
 S君はS君自体が僕という人間を作りだしたんです。また世界を作りだしているんですね。作りだした世界から自分を見つめる眼が必要になりますね。作りだした世界を我として、その我が自分と云う存在を問うことを求められてるんだと思います。
 苦しみとか悩みは、存在の根拠を知りたいと云う欲求だと思いますね。反逆はいつも苦悩と共にあります。そのことが大変な意味を持っているんですね。自分への執われは永遠になくならないことでしょうが、そのことが教えている意味は、自分への執われを依り所とはしないということだと思います。依り所にしないことは出来ると思いますね。執われている心はグーですし、グーを開いてあげる、パーです。握った手を離してあげる。それが無常に生きる永遠の存在なんでしょう。永遠と云う時が、真の存在を浮かび上がらせてくるんだと思います。その為に自我と云うフィルターを通過点として、フィルターを付けた自分を他者の眼で見つめることが必要でしょう、そのように思われてなりません。僕の方がくどくど言ってますね。でも、非常に鋭い眼差しで聞いて下さっていると思います。くじけずに精進努力あるのみです。