唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 第三・総料簡(7)

2015-02-20 22:10:29 | 初能変 第二 所縁行相門
 
   もうすぐ雛祭りですね。 
 今日は総料簡の第二段になります。所変の境について説かれます。業力所変・定力所変の境となるものは如何。
 「略して此の識の所変の境を説かば、謂く有漏の種と十の色処と及び堕法処(ダホッショ)の所現の実色(ジッシキ)となり。」(『論』第二・三十一左)
 以上、業力所変と定力所変を説いてきたが、業力と定力を併せて、総合して略していうならば、第八識所変の境、第八識が対象とするものはなんであるのかという問いですね。
 つまり、有漏の種子である。無漏の種子は第八識所変の境ではないということ。無漏は仏の識所変であるということです。第八識の体は能変と云われていますが、所変の相分が境です。これが内外に分かれて説かれていました。種・根・器ですね。この種は何を指すのかというと、有漏の種子である、と。そして十の有色処(ウシキショ)。色を有する処で根と対象ですね。、即ち五根・五境です。有色処は十二処なのですが、物資的ではない意根と法境とを除いた物質的な十の処(眼・耳・鼻・舌・身の五根と色・声・香・味・触の五境)を有色処と云われているのです。
 また眼・耳・鼻・舌・身識の対象である色・声・香・味・触の五つは、欲望の対象となって心を汚すところから塵に喩て五塵(ゴジン)とも云われています。そしてこの五塵は内外に通じ、五根は唯だ内のみであり、唯だ実境を縁とすると説かれます。
 次の堕法処の堕は「是れ摂の義なり」と云われていまして、摂めると云う意味ですね。法処に摂められる色で法処所摂色(ホッショショショウシキ)とも云われます。これは定力によって起こってくるものです。これに五つありまして、(1)極略色 (2)極逈色(ゴクキョウシキ) (3)受所引色 (4)定所生色 (5)遍計所起色(ヘンゲショキシキ)の五つで、『対法論』第一及び『瑜伽論』巻第五十四等に説かれています。「極略色と極逈色はただ第六意識分析して極微に成るが故に」。分析(ブンシャク)とは、色を、それを構成する要素に細かく分けることを云いまうが、色の最小単位を極微と云われています。木端微塵とはこういうことを表しているのでしょう。もうこれ以上細かく分けることは出来ない単位ですね。そして極微は、第六意識によって事物を分析して心の中に仮に作りだされた影像にすぎないと主張します。
 定は第六意識によって起こってくる、五根・五境に摂められるものではないということですが、どこに摂められるのかと云いますと、法処ですね。第六意識の認識対象が法処であり、実色を対象としている。幻のようなものを対象としているのではないということになります。 (つづく)