唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (16) 有根身 (4)

2015-02-04 20:46:29 | 初能変 第二 所縁行相門

 五念門の一番目は礼拝・讃嘆ですね。礼拝というと私が礼拝し讃嘆するということに思います。しかし、いついかなる時においても私を支えてくれている働きがある。その働きが私に礼拝し讃嘆してくださっている。人間は五悪趣の中の一つの境遇ですが、善の果報として人間として生をうけた。そその意味は、浄土に生まれることを業とする存在であり、現世は留まるところではないということでしょう。「帰去来、魔郷に停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。いたるところに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。已上」(証巻・真仏土巻・化身土巻・安心決定鈔)浄土に生れよと礼拝し讃嘆されている者が有情という存在である、ということでありましょう。現世は好き勝手にしていいところではないのですね。よき人のおおせをこうむって招喚の声を聞く。「欲生我国」、如来の呼び声ですね。私が善業を振り向けていく世界ではないのです。「我が国に生れんと欲え」という清浄意欲とか善法欲と云われる「欲」ですね。欲、生きると云う生存欲がないと老化するんですね。老化しないためには欲を燃えたぎる必要があるんですが、この生存欲は「浄土に生れんと思うこと」と不一不異なんです。これを忘れますと我欲に走ります。己さえよければいいということ。或はこれが一番恐ろしいことなのですが、セクト欲です。セクトが満たされればいい、という。セクト内は人・セクト外は人に非ずと排除する方程式が成り立つんです。悲しいことですが現実です。
 私たちは礼拝され讃嘆されている如来の声を聞かなくてはなりませんね。「化身土巻」では魔郷を具体的に他郷と押さえておいでにないます。現世は「決以疑情為所止」(決するに疑情を以て所止とす)処。このことの意味するところは、人間として生まれさせていただいて、人間にだけ与えられた「還到本国」の志願ですね。他郷の言につづいて「仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。悲喜交わり流る。深く自ら度るに、釈迦仏の開悟に因らずは、弥陀の名願いずれの時にか聞かん。仏の慈恩を荷いても、実に報じ難し、と。」阿弥陀の浄土を依り所として生きよ、という声を聞ける存在が人間としての生まれてきた証しなんだと思いますね。そんなことを思いつつ、今日のブログを綴ってみたいと思います。
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 阿頼耶識の所縁の内境は種子と有根身ですが、いまは有根身について述べています。昨日は「共相の種を成熟せる力有るが故に、他身の処に於ても亦彼を変似す」という科段の「変似」するのは何かという問いに対して、安慧菩薩の所論を伺ってみました。「此の中に有義は、亦根をも変似す。弁中辺に自他身の五根に似て現ずと説くが故に。」
 共相の種として、他の人の身においても「彼を変似す」、つまりですね、他の人の身をも私たちは阿頼耶識の対象として捉えているんだ、と。自他を通して、自分の身体と、他人の身体をも阿頼耶識は対象とする働きがあるのではないのかということですね。それが「他身を受用する」ということになるわけです。阿頼耶識が他身をも対象とすることに於て、共同の作業が成り立つのです。「今日は大掃除をしましょうか」「はい」と呼応するのは共に同じ経験を積み重ねてきたことによるわけですね。「共相の種を成熟せる力有るが故に」とはそういうことを指しているわけです。
 この時に身体を対象とするといっているのですが、どこまでが対象となるのかという問いです。安慧菩薩は「すべて」だと。根依処は共通していますが「根をも変似す」、五根そのものも対象化すると主張しているんです。それに対して護法菩薩は「そうではないんだ」、と。対象となるのは扶塵根のみを変現しているのであるといいます。安慧さんの主張では五根という勝義根も対象とするということであるなら、他身の痛みや辛さを共有することが出来るということになる。確かに、共通の種子をもっていることに於て、痛みや辛さを理解することは出来るかもしれないが内面に入ってまでも対象とすることが出来るのかと問を返されます。「それはできない」と。
 「有義は唯能く変じて依処のみに似る。他根をば己に於て用うる所に非ざるが故にと云う。」(『論』第二・三十一左)
 「述して曰く。此は護法菩薩等の解なり。唯だ他根の依処のみを変ず。他根は己に於て都て用無きが故に。若し用無くとも亦変ずと云はば、何ぞ七識をも変ぜざる。縁慮の用無けれども而も縁ずることを得るが故に。若し爾らば彼に自他の根現と説ける文をば如何ぞ通ずる。」(『述記』第三本・七十三右)
 護法菩薩は、安慧さんの主張には無理がある。そうではなく、私たちが他人の身体について理解できるのは依処のみである。依処は扶塵根である肉体です。肉体である所の身体は理解できる。居酒屋に出かけることが有りますが、友人が飲みすぎますと、ちょっと飲みすぎやと判りますが、飲みすぎて身体の中の機能がどうのように働いているのかはわからなであろう、と。判る範囲は身体のみであって、その人のもっている内面の働きまでは判らないのではないのか、というのが護法さんの主張になります。その説明が「他根をば己に於て用うる所に非ざるが故に」ということです。他身を自分勝手に使うことは出来ないであろうということですね。内面の問題は各人個々のものであって、私が越権することは出来ないということになりましょうか。個々の尊厳を大切に見てきたんですね。阿頼耶識は他身をも変現しているけれども、それは身体のみの根依処であって、根そのものまでを変現しているのではないということになりますね。 (つづく)