唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (17) 有根身 (5)

2015-02-05 20:58:54 | 初能変 第二 所縁行相門

  余談ですガ、帰路スタバで珈琲をと思ったんですが、僕が入る隙間がありませんでした。先日はミスドは似合わんとさんざん言われましたが、スタバも似合わんと思い知らされました。そこで放出コノミヤの店内で一時の休息をいただきました。どこが違うねんという感じですが、やっぱり違いますね。
 
 今日は昨日のつづきになります。護法菩薩の正義を学びます。『成唯識論』本文を記します。
 「 有義唯能變似依處。他根於己非所用故。似自他身五根現者。説自他識各自變義。故生他地或般涅槃。彼餘尸骸猶見相續。」(大正31・11a) (有義は唯だ能く依処の身を変似す。他根は己に於て用る所に非ざるが故にと云う。自他身の五根に似て現ずと云はば、自他の識各自ら変ずる義を説くなり。故に他地に生るも或は般涅槃するも、彼の余れる尺骸猶見(シガイナヲケン)に相続せり。)
 阿頼耶識は他に対しては根依処のみを変似する。五根そのものは変似していない。何故ならば、他根は私が用る所ではないし用ることはできない。自分の所有するとことのものではないというのは、他人の眼で私が見ること、或は他人の耳で私が聞くということはないわけです。ですからそういうものを変似する必要がないということになりますね。『弁中辺論』に説かれている真意は、自他身の五根に似て現ず、とおいうことであって、自他の識が各々自ら変現することを表しているのである。自分の五根と他の五根、それは自他の身、自分の身と他の身が各々自ら別々に、自らの身を通して他の人の身を対象としているからである、と。私は私の五根。他は他の五根で各々が五根を変じているのである。
 『述記』には「彼は自他の阿頼耶識の各々自ら根を変似すと云うことを説くなり。自ら他根を変ずるには非ず。一には無用なるを以て他根を変ぜず。二には彼の弁中辺論に定んで説いて自身の本識、他根を変ずと言はざるに由るが故に、証と為すべからず。」と釈されています。
 阿頼耶識は他に対して根依処の身を変似していますから、つまり肉体(扶塵根)というものを変現していますから、その人が死んでしまったとしtも肉体は消え去らないのですね。死んでしまったら第八識は消えてしまうのですから、肉体も同時に消えて亡くなってもおかしくはないのですが、消えて亡くならないですね。それは不共中の共業によるからであるといいます。私は私の阿頼耶識によって肉体を変現していますが、それだけではなくして、他の肉体をも変現している。ですから誰かが亡くなったとしてもすぐに消去るものではなく、徐々に朽ち果てていき、やがて荼毘に付せられることになります。その説明が「故に」以下で述べられます。(つづく)