唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義 (3) 二分義について (3)

2014-11-06 23:10:23 | 初能変 第二 所縁行相門
二分説の理頌と教証
  「若し心・心所にして、所縁の相無きは、自の所縁の境を縁ずること能は不る応し。或は一一いい能く一切を縁ず応し。自境も余のごとく、余も自の如くなるが故に。」(『論』第二・二十六左) 
 この一段は、所縁というものが無ければならないという理証を挙げています。
 もし、心・心所に所縁の相が無かったならば、自の所縁の境を認識することはできないであろう。
 心・心所法は有所縁の法であり、
 所縁は境である。
 識が働く為には所縁は不可欠である。
 所縁の相が無かったなら、識は所縁の相を認識することが出来ない。認識が成り立たないのですね。
 しかしです、若し、所縁の相が無くても認識することができるのであれば、一つのものが一切のものを現ずることができることになってしまう。これでは六識と六境の関係が混乱をしますよ、といっているんですね。眼識は色境を乃至意識は法境を認識するわけです。識は見分であり、境は相分です。この関係が破壊されます。眼識が一切の境を認識することになるからですね。必然の関係から、偶然の関係になります。眼識は色境を認識するのは必然の関係ですが、一切を認識してもいいというのであれば、偶々の関係になります。
「自境も余の如く、余も自の如くあるべきが故に」、自境が他を縁じ、他境を自が縁ずるという過失を犯すことになる。自他の区別がなくなり、一切を縁ずることになってしまう、と。
 これは安慧の一分説(所縁の相は所執であるから無法であるという主張)と部派の正量部の執心(外境は有であるとする説)を破斥しているのです。

 能縁はどうかということですが、
 「若し心心所能縁の相無くば能縁に不る応し。虚空等の如し。或は虚空等も亦是れ能縁なるべし。」(『論』第二・二十六左) 
 心・心所には能縁の相が有ることを明らかにしています。もし、心心所に能縁の相がないならば、能縁の法ではないであろう、と。そうでないならば、心・心所は能縁ではないことになる。意識は何かについての意識であり、「なにか」について能縁があるわけです