唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

十一月度 『成唯識論』講義テキスト

2014-11-24 21:52:50 | 初能変 第一 熏習の義
 前回までに、種子の六義が終わりまして、今回は熏習について、何が所熏であり、何が能熏になるのかを学んでいこうと思います。テキストの概略につきましては以前に書き込みをしております。参照していただけたらと思います。今回はテキストの読み下し分を掲載いたしました。
  ファイル添付の方法がわかりませんので、読みにくいと思いますがお許し下さい。
  十一月度講義 十一月二十七日木曜日・午後三時より 八尾市本町 聞成坊において 
 
 (所熏(しょくん)の四(し)義(ぎ))
 何等(なんら)の義(ぎ)に依(よ)ってか熏習(くんじゅう)の名(な)を立(た)つるや。所熏(しょくん)と能熏(のうくん)と各四(かくし)義(ぎ)を具(ぐ)して、種(しゅう)を生(しょう)・長(ちょう)せ令(し)むるが故(ゆえ)に熏習(くんじゅう)と名(なづ)く。
 何等(なんら)をか名(なづ)けて所熏(しょくん)の四(し)義(ぎ)と為(な)す。
一(ひとつ)には堅(けん)住性(じゅうしょう)。若(も)し法(ほう)の始終(しじゅう)一類(いちるい)に相続(そうぞく)して能(よ)く習(じっ)気(け)を持(じ)す。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は転(てん)識(じき)と及び声(しょう)と風(ふう)等(とう)とは性(しょう)竪(けん)住(じゅう)なら不(ざる)が故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
二(ふたつ)には無記性(むきしょう)。若(も)し法(ほう)の平等(びょうどう)にして違逆(いぎゃく)する所無(ところなく)して能(よ)く習(じっ)気(け)を容(い)る。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は善(ぜん)と染(ぜん)とは勢力(せいりき)強(ごう)盛(じょう)にして容納(ゆうのう)する所(ところ)無(なき)が故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。此(これ)に由(よっ)て如来(にょらい)の第八淨(だいはちじょう)識(しき)は、唯(ただ)旧種(くしゅ)のみを帯(たい)せり。新(あたら)しく熏(くん)を受(う)くるものには非(あら)ず。
三(みつ)には可熏(かくん)性(しょう)。若(も)し法(ほう)の自在(じざい)にして、性(しょう)竪(けん)密(みつ)に非(あらず)して能(よ)く習(じっ)気(け)を受る。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は心所と及び無為法とは他に依て竪(けん)密(みつ)なるが故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
四には能熏(のうくん)と共(とも)に和合(わごう)する性(しょう)。若(も)し能熏(のうくん)と同時(どうじ)同処(どうしょ)にして不即(ふそく)不離(ふり)なる乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は他身と刹那前後とは和合(わごう)の義無きが故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
唯(ただ)異(い)熟(じゅく)識(しき)のみ此(こ)の四(し)義(ぎ)を具(ぐ)して是(こ)れ所熏(しょくん)なる可し。心所(しんじょ)等(とう)には非(あら)ず。


 (能熏(のうくん)の四(し)義(ぎ))
 何等(なんら)をか名(なづけ)て能熏(のうくん)の四(し)義(ぎ)と為(な)るや。
 一(ひとつ)には有(う)生滅(しょうめつ)。若(も)し法(ほう)の常(じょう)に非(あらず)して能(よ)く作用(さゆう)有(あり)て習(じっ)気(け)を生長(しょうじょう)する。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は無為(むい)は前後(ぜんご)不変(ふへん)にして生長(しょうじょう)の用(ゆう)無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 二(ふたつ)には有(う)勝用(しょゆう)。若(も)し生滅(しょうめつ)有(あ)り勢力増(せいりきぞう)盛(じょう)にして能(よ)く習(じっ)気(け)を引く乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は異(い)熟(じゅく)の心(しん)心所(しんじょ)等(とう)は勢力臝劣(せいりきるいれつ)なるが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 三(みつ)には有(う)増減(ぞうげん)。若(も)し勝用(しょうゆう)有(あり)て増(ぞう)す可(べ)く減(げん)ず可(べ)くして習(じっ)気(け)を摂植(せつじき)する。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は仏果(ぶっか)の円満(えんまん)の善法(ぜんほう)は増(ぞう)も無(な)く減(げん)も無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。彼若(かれも)し能熏(のうくん)ならば便(すなわ)ち円満(えんまん)に非(あら)ず。前後(ぜんご)の仏果(ぶつか)に勝劣(しょうれつ)有(あ)りぬべし。
 四(よつ)には所熏(しょくん)と和合(わごう)して転(てん)ず。若(も)し所熏と同時(どうじ)同処(どうしょ)にして不即(ふそく)不離(ふり)なる。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は他(た)身(しん)と刹那前後(せつなぜんご)とは和合(わごう)の義(ぎ)無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 唯七転(ただななてん)識(じき)と及(およ)び彼(か)の心所(しんじょ)とのみ勝(すぐれ)たる勢用(せいゆう)有(あり)て而(しか)も増減(ぞうげん)するのみ。此(こ)の四(し)義(ぎ)を具(ぐ)するを以(もっ)て是(こ)れ能熏(のうくん)なる可(べ)し。


 是(かく)の如(ごと)く能熏(のうくん)と所熏(しょくん)との識(しき)は、倶生(くしょう)・倶滅(くめつ)にして熏習(くんじゅう)の義(ぎ)成(じょう)ず。所熏(しょくん)の中(なか)の種子(しゅうじ)を生長(しょうじょう)せ令(し)むること、苣(こ)勝(しょう)に熏(くん)ずるが如(ごと)し。故(ゆえ)に熏習(くんじゅう)と名(なづ)く。能熏(のうくん)の識(しき)等(とう)は種(しゅう)従(よ)り生(しょう)ずる時(とき)に、即(すなわ)ち能(よ)く因(いん)と為(なっ)て復(ま)た種(しゅう)を熏(くん)成(じょう)す。三法(さんぽう)展転(ちんでん)して同時(どうじ)因果(いんが)なること、炷(しゅ)の焔(えん)を生(しょう)じ焔(えん)生(しょう)じて炷(しゅ)を燋(しょう)するが如(ごと)し。亦束蘆(またそくろ)の更互(こうご)に依(よ)るが如(ごと)し。因果倶(いんがく)時(じ)なりと云(い)うこと理傾動(りきょうどう)せず。能熏(のうくん)が種(しゅう)を生(しょう)じ、種(しゅう)が現行(げんぎょう)を起(おこ)すことは倶(く)有因(ういん)を以て士用果(じゆうか)を得(う)と云(い)うが如(ごと)く、種子(しゅうじ)の前後(ぜんご)にして自類(じるい)相生(そうじょう)することは、同類因(どうるいいん)を以(もっ)て等流果(とうるか)を引(ひ)くと云(い)うが如(ごと)し。此(こ)の二(に)は果(か)に於(お)て是(こ)れ因縁性(いんねんしょう)なり。此(これ)を除(のぞい)て余(よ)の法(ほう)は皆(みな)因縁(いんねん)に非(あら)ず。設(たと)い因縁(いんねん)と名(づな)けたるも応(まさ)に知(し)るべし、仮説(けせつ)なりと云(い)うことを。是(こ)れ略(りゃく)して一切(いっさい)種(しゅ)の相(そう)を説(とく)と謂(い)う。」